日が落ちれば間を置かずに暗くなる。一段深くなる寒気から少しでも遠ざかろうと、誰も彼もが急ぎ足だった。
つかず離れずの距離を保ちながら眺めている小柄な背中にも、急いでいる気配がある。無遠慮な視線を向けられても、少しも気付かない娘に、縁は薄く笑った。
(いいな。鈍感なほうがやりいい)
堀端の道を一心に歩いている薫が襟巻きを直した。ものぐさにも立ち止まらないところを見ると、よほど帰りを急いでいるらしい。当然だ。いくらこの島国が泰平を謡おうとも、日が暮れてから女一人で出歩くなど感心しない。
(夜道のどこに悪意が潜んでいるか、わからないからな)
それで見るべきものは済んだ。要である娘を自分の目で確かめてみても、さほど縁の心は動かなかった。こんなものかと、わずかな落胆があったくらいだ。ひややかな一瞥をくれてから、歩調を緩め、人の群れの中に身を混ぜていきながら、縁が視界の端に物の動きを捉えたのは、偶然だったろう。
薫が通り過ぎようとしているのは、構えの大きな材木屋だった。堀に添うように据えられた荷上場にはざっと十人近くの人足が立ち働いている。木目の新しい柱材を次々と側壁に立て掛けては、次の材木を下ろしにかかるのに忙しなく声を交わしていた。固定されずに立て掛けられた材木が、天に乏しく残っている日を厭うように、ずるりと傾いだ。店の前にあれほど人が寄り集まっているくせに、誰一人気が付いていない。あの女もだ。
全体図を見通せる位置にいた縁は、その後に起こるだろう事態が容易に想像できた。小さく舌打ちしてから一度紛れた人垣から素早く抜け出す。傾いだ力が材木を割る不穏な音に変わり始めると、薫がはっと頭上を仰いだが、縁は構わず小さな体を掬い上げるように掴まえていた。走り抜ける縁達を追うように土煙が上がった。
材木が倒れる勢いはおおよそは計れていたが、予測より高く飛び散った木片が一息遅れてぱらぱらと降ってきた。腕を上げて外套で破片を防いでやりながら、縁は声をあげることもできないでいる薫を見下ろした。
「やれやれ、危なかったな」
考えが、つい声に出てしまった。計画に必要な駒が潰れるのを首尾良く防げたことに対する安堵の台詞だったが、聞こえてしまっただろうか。
「あ…危ないところを、ありがとうございます、あの、おけがはありませんか」
衝撃のせいか薫の声は上ずっている。縁は思わずにこりと微笑んだ。薫が自分を疑った様子はまるでなかった。
「ええ僕は平気です。あなたこそどうですか、立てますか」
縁に抱き支えられ、ほとんど爪先立ちになっている薫が、急にあたふたし始めた。どんな格好でいるか、ようやく理解したらしかった。
「はい、立てます、ごめんなさい大丈夫です、一人で立てます」
「ほんとうかな、無理はしないでいいんですよ」
「ほんとに大丈夫、ちょっとびっくりしただけで、どこも痛くはないんです」
「そう? では、ゆっくりでいいですから、立ってみて」
人足の一人が慌てふためきながら近づいてきたのを、縁は振り返って丁寧な身振りで押しとどめた。
「僕もこちらの方も問題ありません。そちらも大変でしょう? どうぞ始末に専念してください、僕らは、なんともありませんから」
実際、怪我もしていない自分達に構っている余力などなかったのだろう。荷崩れ騒ぎの中に慌ただしく戻る人足や物見高い通行人など邪魔なだけだった。空気にはまだ土埃がいくらか残っていて、縁はゆっくりまばたきをした。
(死人が出たかな。まあ、これさえ無傷ならどうでもいい)
「災難でしたね。いえ、たまたま目に入ったんです、いくら日が暮れそうだからといって雑なやり方をしてるなあと。もし崩れでもしたら通りがかっただけのあなたが潰れてしまうかもしれないってね。ああいけないな、やっぱりふらついている」
縁がもう一度手を伸ばすと、薫がふと体を固くしたのがわかった。いくらなんでも口上が軽すぎたかと、かすかに後悔めいた気分が湧きかけた。差し伸べた手に温かい重みがかかる。縁の鎖骨のあたりに額をくっつけて、呼吸に合わせて小さな肩が動いている。すぐ見下ろせるところにあるうなじはなめらかで白い。
(なんだこの生き物)
羽根をたたんで体を休めるそこらの鳥だって、こんな風に、全身を預けはしない。
薫が縁にもたれたのは僅かな時間だった。大体がまだ荷崩れ騒ぎに気を取られていて、喧噪の端に位置取っている自分達に注視する物好きなどいるはずない。それでも気恥ずかしさがあったのか、縁を見上げた薫の頬がわかりやすく赤くなっている。
「ごめんなさい、ほっとしたらなんだかくらくらしちゃって。助けていただいて、ほんとうにありがとうございます」
はきはきと礼を繰り返してから、薫は伸び上がって縁の肩の向こうを見た。
「あっちは大丈夫かしら、けがをした人がいないといいんだけど」
「さあ」
一応形ばかりは振り返ってみたが、縁の関心は薫以外に動かない。
「どうかな。べつに人が運び出された様子はなかったけれど」
適当な返事にも薫は真剣に頷いてみせた。
「気が急いていたんでしょうね。明日はもう煤払いだし」
(なんて呑気な奴)
今しがた潰れかけたくせに、と縁は呆れてしまった。
「あの、お急ぎですか? もしお時間があれば、お礼にお茶をごちそうさせてください」
(その上軽々しいな)
口の端を持ち上げながら、縁はかるく首を振った。
「甘いものは苦手ですか? それなら、こんにゃくとか、油揚げがおいしいお店もあるんです」
「いや、僕がもし極悪人だったらぜひとも乗りたいお誘いですが、お気持ちだけいただきます」
目を空に向けると、薫もつられて顔を上げる。
「もう暗くなります、あなたのようなお嬢さんが寄り道などしないほうがいい。ご家族が心配されますよ」
すると、薫の表情に不可解な色があらわれた。見間違いでなければ、口元がくすぐられたみたいにかすかに動いた。なのに瞳が動揺したように揺れている。これは、どういう反応なのだろう。
じっと観察してみたが、薫はもう表情を変えている。
「そう、ですよね。ううん、どうしたらいいかしら、助けていただいたのになにもお礼もしないのは申し訳ないわ」
(簡単にころころ気分が変わるらしい)
いたってそこらの娘同然で、扱いがそれほど難しいわけではなさそうだ。それは縁にとって都合がよかった。
にこりと笑顔を作ると、引き続き明るい声で言う。
「お礼ならもう言っていただきましたから結構です」
「でも、それじゃあ気が済みません」
「そんなにありがたがられても困るな、ただ偶然が重なっただけのことですよ」
「いいえ、こういうことは偶然だからありがたみがあるんです」
「実は人を待たせていまして。待ち合わせに遅れてしまっては困るんです」
「なら明日、明日はいかがですか?」
(察しが悪いな、礼などいらないと言っているのがわからないのか)
内心ひどくうんざりしながら、縁はまた薫を観察した。これほど食い下がってくるのは、あるいは別の理由があるかと考えたのだ。
「お昼を少し過ぎてしまうんですけど、家(うち)でも煤払いのあとは打ち上げをやるんです。お礼においしいくじら汁をごちそうさせて」
途中で、薫はぶるりと震えると体を細い腕で抱きしめた。堀から上がってくる風はひときわ冷たい。またわかりやすく頬が赤くなる。
たしかに襟巻きが無くなっていた。拾い上げたときに落として、薫の代わりに散乱した木材の下敷きになったのだろう。
「すみません、話の途中に失礼しました」
縁はつい笑ってしまった。この女に底意などないのは観察しなくとも明らかだ。考えが過ぎていたのがよくわかる。
「気にしないで。寒いから仕方ありませんよ」
「くじら汁、おいしいんですよ、体も温まるし。焼きおにぎりも作るんです。ちょっと行儀が悪いけどほぐしてくじら汁にいれて食べるのもおいしくって……」
仲良くおしゃべりをするためにわざわざ掬い上げてやったわけではない。
話を遮るために、外套を脱いで着せかけてやった。
「わかりました、そこまで言われてしまってはお断りできませんね。それでは明日お伺いさせていただきます」
縁の外套に包まれた薫が、慌てて顔を上げた。
「だめです、こんなきれいな織物をお借りするわけには」
「女性が体を冷やすほうがよくない。それに」
言葉を句切ると、親しげに肩に手を置く。
「善意で差し出したものを断られるのはお互いうれしくはないでしょう?」
声が低くなりすぎないよう、かといって真面目になりすぎないよう心掛けた。元々の低い地声は人を脅し賺すのには便利だが、小娘の信頼を勝ちうるには気を付けなければならない。はたして、薫はほろりと笑った。
「ふふ、たしかにおっしゃるとおりですね。待ってますから、きっと来て下さい。約束ですよ」
薫は縁の手を取ると、細い小指を絡めてきた。
(なにしてるんだこいつ)
しっかり指切りをすると、薫はいっそう明るい笑顔になる。
「ここを道なりに二丁先に…四つ辻を…の東側が私の家です。神谷道場の看板が出ているからすぐわかると思います」
すでに知っている道順を半分以上聞き流して、縁もお愛想の笑顔を添えて頷いた。
「引き止めてしまいすみません。明日、お待ちしてます。これもお返ししたいですし」
「ええ、必ずお伺いします」
軽く会釈し、やはり急ぎ気味の足取りで続きの帰途につく薫の後ろ姿を、ある予感がして、縁は少し見ていた。
薫は途中で律儀にも振り向いた。まだ縁がそこに立っているのを見ると、外套をしっかりおさえながら手を振ってくる。軽く手を上げてやると、遠目にも晴れ晴れとした表情をしているのがわかった。
(よかったな、これで満足だろ)
周囲にはまばらに人が残っている。物見高い見物人が、後始末にかかりきりの人足達を物見高く眺めていた。手元が暗くなりはじめる前にかがり火の用意までしている。視線を背後に投げた縁は、ふと気付いて、使い物にならなくなった木材の欠片を踏みしめながら野次馬共の間をすり抜けた。最前列にいる男を物のように押しやると、大勢に踏みつけられた女物の襟巻きを拾い上げる。
おいなにしやがる、という声が聞こえたが、いちいち付き合ってやる義理はない。そのまま人垣を抜け出ると、堀に沿ってしばらく歩いた。進む先には寒々とした薄暗がりが広がっている。堀の中は黒く染まっていた。
女に触れられた手を視線のすぐ下に持ってくると、縁は深い溜息をついた。
(くそったれの役立たずめ)
腹の中に、炭に残った火のような怒りがある。その怒りは、半分は自分の手を包んでいるぬらぬらとした疼痛と、もう半分は今しがた話していた女に向けられていた。とくに手の痛みが忌々しかった。鈍い痛みは手の内部にあって、上手く力が入らない。骨が鉛に変わったかのように重かった。あの女が前置きなしに勝手に触れたからだ。
(くそったれ)
先程拾った襟巻きを堀の中へ投げ落とす。軽い水音がして、すぐに静かな流れに戻った。
警戒すらしていなかった。なんの警戒もせず晒した白いうなじがちらちらと目をよぎるのが鬱陶しくてたまらない。締め上げるとか、思い切り叩くかすれば、あんな細首、どうとでもできたはずだ。ままならない自分に苛々する。
(仕方ない。せっかくだから、憂さ晴らしするか)
わざわざあちらから誘ってくれたのだ。頭から無視するには惜しい機会だった。親切な青年を装って現れたら、心底憎い男の無様なうろたえぶりが見られるかもしれない。
そういう想像は、ほんの少しだけ縁の気分を晴らしてくれた。襟巻きを捨てた堀には、油のように濃い闇が広がっている。
居間の障子を全て開け放し、畳の上に広げた外套を一心に見つめている薫に、剣心は思わず微笑んでしまう。縁側に立っている自分にも気付かないほどの熱の入りようだった。もっとも、薫が気付かないのも無理はない。足音を殺す癖はそろそろ直さなければ。
「それでは寒いでござろう。もう少し火鉢を寄せたほうがいい」
「わ、わっ」
慌てて振り仰いだ薫と目が合う。あまりに集中していたからか、目が少し潤んでいた。
「びっくりしたぁ、いたんなら声をかけてくれてよかったのよ」
「いや驚かせてすまない。あまりに真剣だったから邪魔をしてはいけないと思って」
「気にしなくていいのに。あ、お茶持ってきてくれたの?」
「今日は朝から忙しかったから薫殿もそろそろ一息つくといいでござるよ」
「ん、ありがと」
茶卓に湯呑みを置くと、薫は微笑みながらもう一度ありがとうと礼を言った。熱めに淹れたお茶をおいしそうにゆっくり飲んだ。
冬にしては穏やかな日差しが部屋の中に差し込んでいる。だが冬特有の澄んだ空気はそれほどぬくいわけではない。剣心は昼の光を透かし見てから、薫の膝元に視線を戻した。
「それが昨日の御仁の?」
「うん。木くずがついたままお返しするのは失礼だし、なんなら借りたときよりきれいにしなきゃって」
「ああ、それで開けっぱなしに」
薫の脇には乾いた木綿の布が置いてある。日に当てながら、丁寧に汚れを取っていたらしい。
「そんなに寒くないのよ、煤を払って畳を干してぞうきん掛けもして…うんうん、われながらたくさん働いたわね。おかげで体がまだぽかぽかしてるくらいだわ」
「だからといってこれでは外にいるのと変わらない、体が冷えてしまう。風邪は万病の元というくらいだから充分に気を付けるくらいが丁度いいでござるよ。あとで火鉢に足す炭も持ってくるからよく体を温めること。それにまだ明るいのだから障子もきちんと閉めるでござる」
「はーい、わかってますぅ」
長々と注意しているのに、薫の目はどこか面白がっているようだった。桜色の唇がふっと息を吐いた。
「ごめんごめん、ちゃんと聞いてたわ。でも剣心が同じこと言うから、なんだかおかしくって」
「というと?」
「体は冷やさないようにって、これを貸してくれた人も言ってくれたの」
「そうでござるか」
「でも剣心ほど心配性のお父さんっぽくはなかったわね」
「おろ」
借り物の外套を膝の上に乗せるとまた丹念に乾いた布を当て始める。ぽんぽんと布を当てる仕草からは、薫がすこぶる機嫌がよさそうなのが伝わってくる。
(……父親か…いや母親よりはいいのか……?)
胸の内で軽く煩悶しながら、丁寧に借り物を扱う薫の手元をぼんやりと見つめる。
襟巻きを失くして帰ってきた家主の少女を迎えたあとの夜中の内に、剣心は薫が災難にあいかけたという材木屋を検分しに行っている。
騒動の後は全て片付けられていた。材木はしっかりと太い荒縄でくくられ、地面は誰の者だかも判別できないほどの足跡が残っているだけだった。提灯で照らしながら柱材が立て掛けられている側壁も確かめたが、隙間に入り込むのは幼い子供でも難しく、たとえ潜り込めたとしても大男でも押し倒せないほどの重量があった。やはり、薫が言ったとおり偶然の不運が重なった事故だったのだろう。
それでも、喉の途中に物が引っかかったような感覚が残っている。
「薫殿、その、助けてくれたという御仁は」
「うん?」
「まだ若い男ということでござったが、他に特徴などはなかっただろうか」
「んー、背は左之助と同じか、ちょっと低いくらいだったかしら。はあ、ほんと、肝心の名前を聞き忘れるなんてうっかりしてたわ」
小さな肩をすくめると、薫はごまかすように少し早口になった。
「大丈夫よ、煤払いの打ち上げをするから、ぜったいに来て下さいって約束したもの。そろそろ約束の時間だから、どんな人だったかすぐわかるわ」
やれやれ、と剣心も肩をすくめた。
(約束をしたからといって来ないとは考えないのだろうな)
それが薫の長所でもある。わざわざ指摘する必要はない。
「でも、会ったら剣心もびっくりするわね」
「それはまたどうしてでござる?」
「肩とか腕もすごく鍛えていてね、身ごなしも普通じゃなかった。きっと武術を学んでいるんじゃないかしら」
昨日の出来事を思い返しているのか、薫は少し遠くを見るような瞳をしている。
「剣術かな、それとも柔術かも。せっかく知り合えたんだもの、どんな鍛錬をしたらああいう風になれるのか、ゆっくりお話を聞けたらいいなって」
撃剣指南役を依頼されたときと同じ真面目な表情をしていた。可憐な見かけながら武術への関心を寄せる薫に、剣心は素直な敬意を抱いている。なにごとも澄んだ瞳で学ぼうとする姿勢は好ましい。
(どうかそのままでいてほしい)
多少娘らしくなかろうと、薫の抱く理想は、心ない人からは守られるべきだった。親切だったという青年が、彼女を傷付けたりしないことを祈るばかりだ。
「ほんとうに、薫殿が無事でなによりでござった」
しみじみとつぶやきながら、目を細めて薫を見つめる。
「状況が悪かったとはいえ思いがけない不運はどこにでもあるものでござる。今度から出掛ける際には拙者も付き添おう」
「あら平気よ、もう子どもじゃないんだから」
「いいや、用心するに越したことはない。いつどこで災難に遭うかはわからぬものでござるよ」
「でも剣心だってあれこれ忙しいのに悪いわ」
「もちろん家事の手は抜かぬよ。それより薫殿の身に危険が及ばない方が何より大事でござる」
目の届く位置にいれば、大概のことには対処できる。日を追う毎に暮れるのが早くなっていくのが気掛かりだったから、丁度いい機会でもあった。
「……迷惑だろうか?」
声を抑えながら尋ねると、薫はあわてて首を振った。
「そんなわけないわ、迷惑だなんて」
「それは重畳。さて、明後日は警察署での指南でござったな。なに、丁度いい荷物持ちが出来たと思えばさして気にならぬよ」
炭を取りにいこうと立ち上がった剣心の袖を、薫の細い指先がつかんだ。そうしたことに薫は自分で驚いたようで、すぐに手を引いた。頬の高いところが昼間の明るさでも目立つほど赤くなっているのがかわいらしい。
「あのね、ほんとに迷惑じゃないの。ううん、すごくうれしい。だから…お願いしてもいい?」
「ああ。そのほうが拙者も安心でござるよ」
するりと障子を閉めてから、もう一度昼の光を透かし見る。薫の待ち人はもうそこまで来ているだろうか。ふっと小さく笑ってから、物置へと足を向ける。
迷惑か、というのはやや卑怯な言い方だったという自覚はある。差し出された好意をやさしい薫が断れないのもわかっていた。そして、自分でも意外なほど内心面白くなかったらしいのがおかしかった。
(父親、か)
家族と同等に思っていてくれるのはわかる。だが本当に父親扱いされてしまっては、こちらとしても困りものだ。
(たしかに父親なら何よりも先に娘が無事だったことを喜ぶだろうな。ただの親切な男を無闇に疑ったりなどするまい)
足元も覚束ない真夜中に、まるで粗探しをするように丹念に調べ、偶然の出来事だったという結果しか得られなかったことに、不審を抱いている方がおかしいのだ。
(ともかく用心を重ねるしかない。薫殿は人が良すぎるから)
もうすぐやってくるはずの来客を、自分が少しも歓迎していないことは、けして感づかれてはならない。
途中で台所に寄り、来客用の上等な器を取り出していると、剣心は訪いの声と門を叩く音を聞いた。すぐに障子が開く音がし、急ぎ気味の軽い足音も聞こえた。
「いいわ弥彦、私が出るから。はーい、いまいきまーす」
いつもなら耳に心地の良い明るい声を、全神経を集中させて追っている自分に、我知らず溜息が出る。
やはり待ちかねていた来客だったようで、薫の声がいっそう弾んだ。
台所を出ると中庭を通らず道場の裏手に周り、正門からは視界に入らない位置で立ち止まる。薫と来客のやりとりをしばらく立ち聞きしながら、剣心は次第に眉をひそめていた。
「来て下さってありがとうございます。迷いませんでしたか?」
「ええ、教えていただいたおかげでこの通りお伺いさせて頂くことが出来ました。それよりあなたこそ平気でしたか」
「はい。ほんとにけがもなかったし、真っ暗になる前に帰れて」
「ああ違います。僕が言いたいのは、ご家族がより心配なさったのではと思いまして。あんな偶然はにわかには信じられない話ですから」
「まさか、助けていただいたのに」
「今更ですが、正直に申し上げると僕も迷ったんです。あなたはともかく、こうしてお伺いしてはご家族の方が良く思われないのではないかと」
「いいえ、そんなことは」
「ありませんか? そうですね。出来ればそうだと僕も嬉しいのですが」
薫の話をわざと遮っているように聞こえる。物言いも丁重すぎてどこか慇懃さすら感じられた。それに、来客が度々こちらに視線を向けている気配がある。
(……考えすぎだろうか)
草履で土を踏む音を少しずつさせながら門に向かうと、来客の視線は寸分違わず自分に向けられていた。
「ああ、あちらがご家族の方ですか」
自分が様子を窺っていたとは知らない薫は、体ごと振り返るといつもの明るい笑顔になり、無邪気に手招きしている。
「剣心剣心! ほら、来て下さったの。昨日助けてくれた……やだ、まだお名前も聞いてなかったんだわ」
薫は目の届く位置にいる。その薫の向こうにいる来客の顔は、門の影がかぶって、下半分しか見えない。
明らかに自分に向けて、唇が横に割れ、整った白い歯を見せながら愉快そうに笑った。
「いま上がってもらうわ。剣心はお茶の用意をお願いできる?」
薫は手の届く位置にいる。一呼吸で駆けつけられるところにいる。なのに異様な胸騒ぎが剣心の脈を早めていた。
「いいえ、もう用事は果たしました」
「え、ええ?」
来客は門を潜らずあっさりと背中を向けた。
「待って、待ってください、まだなんのお礼も」
あわてて追いかけようとする薫の手首をすでに掴まえていた剣心は、ゆっくりと首を振った。
「薫殿、無理に追いかけなくともいい」
「だって、いきなり帰っちゃうなんて変よ。せっかく来てくれたのにどうして急に」
「拙者のこれ(と逆刃刀を持ち上げてみせる)が目に付いたのだろう。胡乱に思われても仕方ないでござるよ」
納得がいかないという顔をしている薫をなだめながら、剣心は門の外に人の気配が無いのを素早く確かめた。左右どちらの道を行ったのかはわからないが、門前には今しがたまで蝮がいたかのような湿り気だけが僅かに残っている。
(そうだ、まるであれは)
蝮が笑ったかのようだった。薫がこちらを向いてくれていて幸いだった。もし明確な悪意が薫に向けられていたら、考えるより先に割って入っていた。
自分が大勢に恨まれているのはよく理解している。だが薫が巻き込まれる謂れはひとつもない。不気味な嘲笑を残していった男への怒りが、静かに身を満たしていく。
「どうしたの剣心。手がすごく冷たいわ」
「ついさっき水を使ったからでござるよ。しかし、客人を迎える支度もいらなくなってしまったなあ」
「もう、剣心こそ体を冷やしてるじゃない。早くあっためないと」
両手で擦って自分の手を温めようとしている薫に、思わず微笑んでしまう。このやさしい少女に何事もなかったことに、深く安堵していた。
(やはり目の届く場所にいよう。誰であろうと薫殿を傷付けさせはしない)
冬の冷たく乾いた風よりずっと温かな手を、剣心はたからもののように見つめた。
咳き込むと同時に、涙が目に盛り上がってくるのがわかって、薫は情けなさで胸がつぶれそうだった。
(なにしてるよの、はやく、早く立たなきゃ、逃げないと)
締め上げられた喉の痛みを逃がそうと咳は止まらないし、憎悪に満ちた恐ろしい瞳に見つめられた恐怖のせいで冷や汗が全身を薄く覆っている。地面に手をついてしまった体が、まるで他人のもののように動かないのがもどかしかった。
かろうじて動かせた視線の先には、地面に伏して慟哭する雪代縁がいる。苦しげな息の下で、縋るように姉に呼びかけている声が、聞きたくないのに聞こえてくる。悲しい声だった。ひどく悲しい声が、とうとう薫まで泣かせた。
(どうして……こんな、悲しいこと、ばかり)
剣心が過去を語ったときから、薫はずっと悲しくてならなかった。
(みんな……みんな……大切な人をしあわせにしたかっただけなのに……)
どうして幾人もがこれほど悲しまなければいけないのだろう。
我慢しようとしても、ぽろぽろと涙が落ちて、止めることができない。そんな自分が情けなくて、余計に泣けてしまう。
手の甲で涙をごしごしとぬぐって、苦しくなるまで息を止め、少しずつ空気を吸い込む。何度か繰り返すと、ようやく涙が引いてきた。ひゅうっと冷たい風が、まだ濡れている頬にぴりぴりと痛い。座り込んでいる地面はひんやりとしていて、このまま座っていたら、体はすっかり冷えてしまうだろう。
あることを思い出して、薫は重い気持ちを追い出すように、深呼吸をした。ただ立ち上がるだけでもずいぶん気力がいった。そんな自分の情けなさに心がくじけそうになるが、すぐにやらなければいけないことがあった。
足袋の下で地面を一歩ずつ踏みしめながら、縁に近寄る。怖さはあったが、心をきびしく叱咤して、前に進む。
「立って」
縁の傍まで近寄り、声をかける。わかっていたが、縁はうずくまったままで、薫の呼びかけに一切反応を見せなかった。
縁の腕を引っぱってみる。邪魔なものをのけるように乱暴に振り払われた。それでも薫は諦めるわけにはいかなかった。
「立って、立ちなさい」
もう一度縁の腕を掴んで、縁が振り払う素振りをしても、がんばって離さなかった。
はたから見れば間抜けな光景だったろう。少女が足を踏ん張りながら、伏した青年を引っ張り上げようとしている。青年は煩わしそうに少女の手を外そうとするのだが、存外にも根性があるのかしつこく食らいついている。
顔を上げた縁が、低い声で言った。
「…何の真似だ」
「別に。ただ立たせようとしてるだけ」
「鬱陶しい真似をするな、お前なんかに」
「いいから、早く立つ!」
自分でもびっくりするほど大きな声が出た。縁までもがこころなしか目を見開いている。
そのまましばらく互いを見つめ合いながら、先に目を逸らしたのは縁だった。
のろのろと立ち上がりはしたが、縁の状態はとても正常には見えない。顔色は紙のように白く、唇には血の気がない。
腕を掴んだままだった薫は、どうしようかとちょっと迷ったが、すぐに縁の腕を自分の肩に回した。
「やめろ、お前の助けなんかいらない」
「強がってる場合じゃないでしょ。そんなふらふらなくせに、一人で歩けるわけないじゃない」
実際、縁の腕と体は、半分ほど薫の側に傾いていて、泣きたくなるほど重かった。だからといって投げ出す気持ちにはなれない。
「こんな寒いところにいたら体が冷えてしまうわ。戻ったら鏡を見てみなさいよ。あなた、ほんとにひどい顔色をしてるんだから」
見知らぬ屋敷へ戻るために一歩踏み出すと、縁も進んでくれたので、ちょっとだけほっとした。逃げてきた道を戻っていくのに、この重い体をずっと支えきれるか自信がなかったからだ。だが自信があろうとなかろうと、縁を屋敷まで連れていかなければいけない。絶え間なく冷たい風が吹きつけるあの場所に放っておくわけにいかなかった。
「……逃げるには絶好の機会だったろ。つくづく馬鹿な女だな」
「わかってるわよそんなの。あとね、言っておくけどあなたにばかだと思われたって、痛くもかゆくもないから」
「なぜ俺に手を貸す。いちいち敵に塩を送るのが趣味なのか」
「趣味なわけないでしょ。ただ……ただ、あのまま放っておきたくなかったの」
「はっ、馬鹿な上に間抜けだな。感情で動く奴ほど手に負えない馬鹿はいない」
「あーもうっ、わかってるからばかばか言う前にしっかり歩いてよ、あなたほんとに重いんだから」
「だったら離せばいいだろ、誰がお前なんかに手を貸してくれなどと頼んだ。先に余計な真似をしたのはお前だぞ」
「あらそう、でも私には余計じゃないの、くたくたになってて一人で戻れない人を送ってあげようとしてるの、困っている人がいたら手を貸すのは普通のことなの。おわかりいただけたかしら?」
「困っている人だと? どこまで馬鹿なんだよ。お前みたいな女に一体何が出来る、思い上がるのもいい加減にしろよ。ああそうか、雑魚ばかり従えてお山の大将にでもなったつもりか」
「ちょっと! それ以上左之助達のことを悪く言ったらほんとにほっとくわよ!」
「いいさ、放っておけよ」
「いやよ、ほっとけるわけないでしょ!」
たいして急な坂道でもないのに、気を抜くと足をすべらせそうになる。額を伝う汗が目に入らないよう振り払おうとして、あっと思う間もなく、薫の身体は前のめりになった。
けれど転びはしなかった。肩にかけていた縁の腕が、一瞬だけ力をいれて、体を支えてくれていた。転ぶ前に踏む出すことができた右足の汚れた足袋に目を落としながら、薫は小さな声で言った。
「……どうも」
やたらに胸が騒いで縁の顔を見ることはできなかった。見たくない、と思った。
それから二人はまた坂道を進んだ。今度は互いに言葉はなかった。
支えながら歩いていくのに疲れは溜まっていったが、薫の胸は次第に落ち着きを取り戻していた。
(なんで口喧嘩なんかしてるんだろう)
売り言葉に買い言葉の幼稚な喧嘩よりも先に、もっと話すべきことがある。木陰の合間に落ちている光を目で追うと、頭が静かに冷えていく。一向に揃わないばらばらな足音だけが聞こえ、いつのまにか風が止んでいることにもやっと気が付いた。
(こんなに遠かったかしら。もう、重いなあ。戻ったらお茶くらい出してもらわないと。…さすがにむりかなあ)
もう半分は過ぎているはずなのに、屋敷の屋根すら見えない。とりあえず、いまは前に進むしかない。進まなければ縁を休ませてやれない。
「理由はどうあれ、あなたには助けてもらったわ」
「あぁ?」
「お礼もさせてくれなかったけどね。これでもけっこう気にしてたのよ、あの外套だって借りっぱなしで悪いなって。だから昨日、最初はあなたがまた来てくれたと思ったの」
「…………」
「あなたの言うとおりだわ。私、ばかだった。まさかあなたが雪代縁だと思ってなかった。少し考えればわかることだったのに、まだいい人だったなって心のどこかで思ってるのよ。だからほうっておけないの。体を冷やすなって言ってくれたでしょう? 家族みたいなことを言ってくれるんだなあって、うれしかったの」
「騙して悪かったと謝ってほしいのか」
「あ、それはもういいわ」
「もっと要領よく話せないのかよ。お前、一体何が言いたいんだ」
「えーと、だからね」
屋敷の屋根が見えてきた。目標が見えたとたんに、体力が戻ったように感じられた。これなら大丈夫だ、まだ歩ける。薫は縁の腕を抱え直すと、お腹に力を入れ直した。
「ねえ、私を連れてきたのは誰にも邪魔されずに剣心と戦うためなのでしょう?」
「そうだ。生き餌があれば必ずあいつは必ず来る」
「どうしてわかるの?
剣心にとって私はただの同居人かもしれないのに」
「あの時確かめたからな。抜刀斎は隠れていたつもりだろうがお前を庇える位置にずっといた。馬鹿みたいに俺を警戒しながらな」
「……そう、そうだったの」
こんな形で剣心がどれほど自分を守ろうとしてくれていたのかを知ることになるとは思ってもいなかった。
剣心が今頃どんなに心配しているか考えると、胸が破けてしまいそうなほど痛んだ。左之助はちゃんと恵に治療してもらっただろうか。弥彦はけがをしていないだろうか。門下生のみんなは大丈夫だろうか。
(ほんと、ばかみたい。この人が悪いのに、ぜんぶぜんぶ、この人のせいなのに)
縁を憎めない自分につくづく呆れてしまう。
それでも、悲しい思いを抱えながら生きるしかなかったこの人をどうしても悪く思えない。悲しみがまた涙を誘おうとしてくるのを、薫は奥歯を噛んでこらえた。
「邪魔はしないわ」
「は?」
「剣心とあなたが戦う邪魔はしない。約束するわ」
「はは、そうかよ、ありがたくて涙が出そうだな。勝手にしろ、どちらにしろあいつは俺の手で必ず殺す」
「いいえ、誰も死んだりしない。剣心があなたを止めてくれる。巴さんもそう望んでいるはずだから」
「やめろ!!」
ゆるい坂を登り切り、屋敷の形が見えるところまできたところで、薫は縁に突き飛ばされた。憎悪の炎が宿る瞳に射竦められられて、恐怖に歯が鳴る。それでも薫は目を逸らさなかった。
「なぜあいつを肯定できる? 知っているんだろ、あいつが姉さんを殺したことを、俺から姉さんから奪ったことを! 俺は、俺はお前も殺してやりたかったんだ、抜刀斎に騙られている愚かなお前も同罪なんだ! なのにお前は全てを知っていて――」
声を荒げ、肩で息をしている縁の両手が伸びてくる。首にかけられた大きな手が気道を塞ぎ、耳の中に空気の塊がこもるのがわかる。薫はなんの抵抗もしなかった。する必要など初めからなかった。
すぐに手はほどかれ、ぶるぶると震える手を呆然と見つめながら縁は涙をこぼした。
「嫌だ……嫌なんだよ……姉さんを殺した抜刀斎と同じに……なりたくないんだ……」
目の前で膝をついた縁に、今度は薫が両手を伸ばした。白い髪をした頭を抱き寄せる。頬が冷たい。体が凍えてしまっているのだ。せめて自分の体温をわけてやれないかと、薫は縁を抱きしめ続けた。少しでも温めてやりたかった。
(こんな悲しいことは止めなきゃいけない)
これ以上悲しみを拡げてはいけない。家族以上に大切な剣心も、深い悲しみを抱えた縁も死なせたくない。
煮詰まった憎悪の行き着く先を縁がここに決めたのなら、二人の戦いをもはや止める術はなかった。自分に出来るのは、戦いが決する直前まで待つだけだ。ぎりぎりのところで二人の命を救うしか方法はない。上手くいくかなどわからない。それでも飛び込むのに恐れはなかった。
(あの外套を返せればよかったのに)
自分では温めてやれないのを申し訳なく思いながら、薫は縁を抱きしめる腕に力を込めた。
- 24.12.08
あとがき