縁は珍しく迷っていた。日が頭上に動いていくのを気にして、目線を上下させているのに、自分でも気付いていない。結局立ち上がったのは、強いていうなら、後々のことを考えたからに他ならない。
(どうせ口やかましいことを言うんだ。わざわざ付き合わされるのも面倒だ)
揺り椅子が軽く軋む。右手で食膳を持ち、引き戸を足先で開け、階下へ続く階段を降りていく。
邸の主でありながら、台所がどこだったかなどはすっかり記憶から消えていて、縁は小さく舌打ちした。だが都合の良いことに、二つ先の扉から、水を使う音が聞こえる。開け放してある扉を怪訝そうに見てから一歩部屋に入ると、中にいた人物が勢いよく振り返った。
「もう、びっくりしたぁ。あなた、ほんとに片付けにきたの?」
高いところで結んだ黒髪を揺らした薫は、まるで珍しいもののように上から下に縁を見た。片手に布巾を持っているのは、掃除でもしていたのだろうか。縁を見上げる大きな黒い目が、忙しなくまばたきをしている。
「貸して、私がやるわ。さっきは自分で片付けてなんて言ったけど、よく考えたら怪我人に洗い物はさせられないわよね。しばらくは私が洗うから、気が向いたらここに置いといて」
自分に殺されかけたことなどまったく気にしていない様子で、神谷薫は縁の手からひょいと食膳を取り上げた。その行動もいかにも自然で、何度もこうしたことがあるようだった。ただ、きっちり半分残っている朝飯に目を落とすと、形の良い眉が不機嫌そうに持ち上がった。
「特に味噌汁が不味かった」
ごく正直な感想を言ってやると、神谷薫は怒りを納めるように、長々と息を吐いた。
「あっそう、はいはい、お粗末さまでした」
残飯を一枚の皿にまとめ、流し台の水を貯めてある桶に食器をつけていく。てっきり文句を言ってやっただけの応酬があると待ち構えていた縁は拍子抜けしてしまった。この女のことだから、喧しくがなるだろうと思っていたのだ。後ろ姿をぼんやり見ていると、また振り返った神谷薫が、ごまかすように早口で言った。
「あなたももうわかってると思うけど、私ね、料理は得意じゃないの。だからあんまり期待しないでもらえると助かるわ。もちろんできるだけがんばってみるけど……。はあ、けっこう練習してるつもりなんだけど、なんでかなあ」
縁の嫌味などちっとも堪えていない様子で、手際よく茶碗や湯呑みを洗っていく。料理は下手なくせに、家事は不得意というわけではなさそうだ。まだ後ろに立っている自分に声だけかけてきた。
「大丈夫だってば、洗い物も一人分も二人分もたいして手間は変わらないもの。持ってきてくれてありがとう」
縁の知らない、小さな鼻歌が聞こえてくる。この島国が大きく変化してから流行った歌だろうか。そういう物思いよりも、神谷薫が洗っている食器が触れあう音のほうが、縁の耳にはよく響いた。
(姉さん)
井戸脇で洗い物をしているところにこっそりと近づいて、縁が後ろからわっと大きな声をかけると、姉はいつも驚いてくれた。驚いたあとに、必ず微笑んでくれた。縁の悪戯だとわかっていて、驚いた振りをしてくれていると知ったのは、いつ頃だったろう。幸せな記憶だった。姉が笑ってくれるのが嬉しくて、幸せだった。だが今は、白い手を口元に添えて笑う姉の顔が思い出せない。いくら深く記憶を探ってみても、姉の笑顔が思い出せなくなっている。縁は無意識に、吊っていないほうの手で服の胸元をきつく掴んでいた。
そこにいる、縁と共にあるはずの姉の魂は、笑っていない。死んだときから少しも変わらずに美しい姉は、ただ静かに佇み、目を伏せてしまう。悲しげな仕草は、総身を刻まれるよりもひどい痛みを伴って、縁の胸を容易く引き裂いた。
(どうして笑ってくれない、なぜ笑ってくれない、どうしてだ、姉さん、姉さん……)
姉は何も教えてくれない。縁が幾度問いかけても、ほとんど懇願するように答えてほしいと希っても、何一つ答えてもらえなかった。
(だって今までは笑ってくれていたじゃないか、どうしてだよ、俺が間違えたからなのか? なら一体何を間違えた? もし間違っていたなら教えてくれよ、頼むから……)
いくら考えてもわからない。どうして、なぜ、と考えるのに、縁は疲れていた。
ただ姉に笑ってほしいだけなのに、縁には何の手立ても浮かばない。この三日間考え続け、問いかけ続け、笑いかけてくれないことがどんなに苦しく辛いかを必死に訴えても、姉の魂は静かに縁を拒むだけだ。
肉体も精神も、疲れ切っていた。
(……ああくそ、なんでだよ、全然わかんねぇよ)
じっとしていれば嫌でも考えてしまう。
食器を洗い終わって、他の汚れでも見つけたのか、流しの隅を洗い出した神谷薫の後ろ姿を眺めていると、少しは気が紛れた。神谷薫は自分がとっくに出て行ったものと思っているらしく、バスローブを肩口までめくって、両の二の腕を剥き出しにしながら、まめまめしく立ち働いている。
(……恥じらいもない上に忙しない奴だな)
満足いくまできれいになったのか、額の汗を大仰に拭うのを見届けてから、縁は音も立てずに台所から出て行った。
一通り掃除が終わると、うっすらと埃が積もっていた台所も、しばらくぶりの人気を得て、なんだかほっとしているみたいだった。広々とした流しや、立派な鍋や食器達も、使ってくれる人がいなければ無用の存在になってしまう。きれいになった台所を見回した薫は、濡れた手を拭きながら、そっとほほえんだ。
(どれくらいかわからないけど、しばらくお世話になるわね。大切に扱うからどうぞよろしく)
話し相手がひとりもいないので、心の中で語りかける。もちろん食器が返事をしてくれるわけではないが、こういうのは気持ちが大事なのだ。戸も開けっぱなしにしていたから、最初に使わせてもらったときよりずっと空気が軽い。つうっと流しの端を指でなぞれば、掃除したての気持ちのいい感触が返ってくる。うんと体を伸ばして、「なたねの、はなざかり」と最後の節まで口ずさみながら、立ち働いているうちに緩んだ髪紐を慣れた手つきで直した。そういえば、この西洋浴衣も薫の知らない生地が使われている。きっと外国のものなのだろう。あらためて、なにもかもが違う場所から来たものなのだと実感する。
(けどこれだけ使われた形跡がないってことは、やっぱりここはあの人専用のお屋敷なのよね。なんとなく空気が重いのはそのせいかしら)
薫に宛がわれた部屋は大きな窓がいくつかあって、朝起きたときに、新しい風を通すことができる。
だが他の部屋に出入りしていいものか判断がつかなく、薫はまだ足を踏み入れたことはない。寝間と台所、厠と風呂、それから縁がいる場所しか知らなかった。
使われなくなった人家は荒れるのが早い。こんなに立派なお屋敷がそんな目に遭うのはかわいそうではないか。かといって、家主はあの通りなのだから、とても気軽に意見を伝えられる相手ではない。
(ま、いっか。ずっとほったらかしにされてるんだから、私がなにかしたって気にしないだろうし)
同じ屋敷にいるというのに、縁とは実に三日ぶりに話した。そうしてわかったのは、用事がなければ、縁は驚くほど口数が少ないということだ。口数が少なくなるのは、憎いのに殺せない自分を視界にも入れたくないからだろう。
薫はそっと自分の首に触れた。縁の指に絞められた痕は、目立つほどではなくなっている。けれど底深い憎悪が宿った目で睨まれた恐怖はまだ薄れずに残っている。さきほど、縁が台所に入ってきたとき、ほんとうは、背中に冷や汗がにじむほど怖かった。だがその恐怖はあっさりと、薫自身にも信じられないくらい、きれいに雲散霧消した。
(……あれからずっと泣いていたのかな)
ひどく疲れた目をしていた。しょんぼりと落ちた肩に覇気はなく、別人のように気力を失っていた。
たった一言の嫌味しか残していかなかった縁に、薫はむしろ、こんなに落ち込んでいる人に親切にしないのは悪いような気分になったのだ。
(とりあえず仮の同居人なんだから、ごはんの用意くらいならあくまでもついでってことでいいわよね)
人誅という大義名分を掲げて行われた非道な行為を許せるほど薫の心は広くない。かといって、あんな萎れた姿を見てしまっては、頭から無視することもできはしない。心の秤はぐらぐらと揺れっぱなしで、薫はつい溜息をついてしまう。
(みんな、どうしてるかな……)
心はすぐに仲間の安否を気にしてしまう。東京へ戻るための連絡船乗っ取りをしくじったのは手痛い失敗だった。けれどくよくよと引きずっているわけにはいかない。それに、ほんの少しだったが、薫の不安を和らげてくれたこともある。
縁のあの様子だ。人誅が全て計画通りに遂行されたのなら、あれほど落ち込んだりするだろうか。たしかに自分は拉致されてしまったが、剣心の傍には頼りになる仲間がいる。
きっとなにか、計画にほころびがあったのだ。薫には想像するしかできないが、彼の中にある巴の魂が笑ってくれないというのは、そのほころびのせいではないだろうか。
(大丈夫、剣心ならきっと大丈夫。だって剣心だもの。みんなだっているんだから)
自分を鼓舞するためにも胸の内で繰り返す。剣心が、大切な仲間が待っている家に帰りたい。他愛のないことで笑い合える家に帰ろう。きっと帰ってみせる。
捲っていた西洋浴衣の袖を直していると、胸の奥底で蠢くものが薫の動きを止めた。
「っ……」
息がしづらい。体がふらりとよろめいて、あわてて壁に手をついた。そうっと息を整える。どこも痛くはない、苦しいわけでもない。ただほんのちょっとだけ、呼吸が上手くできないだけだ。
「もう、やんなっちゃうなあ……」
ぼやいた声はちっとも元気がない。どうして体がこんな反応を示すのか、薫にはよくわかっている。ひんやりと冷たい漆喰の壁に背中を預けて、天井を仰ぎ見た。天井の向こうには、一人きりでぽつんと座っているだろう縁がいる。
(私にとってどっちのほうが大切かなんて決まってる。あの人の味方になれるの? ばか、なれないくせに。甘いのもいいかげんにしなきゃ)
縁の不調は薫にとって有利でもあり、状況を示してくれる指針でもある。落ち着いて現状を整理しただけのことだけだ。けして縁の落ち込んでいる姿を喜んでいるわけではない。痛ましく思ったところで、薫には同情している余裕なんて、これっぽっちもなかった。そういう気持ちとは裏腹に、心の隅には、薫の態度を咎めるものがある。自分ではどうしようもない感情がうずいて、余計な想像を勝手に掻き立てる。
(とても大切な人が、笑ってくれなくなったら……)
多感な年頃の薫は、ごく素直に思い浮かべてしまう。もし今までずっとやさしい笑顔を向けてくれた剣心が、ある日、急に一切笑いかけてくれなくなったら、自分を見ようともしなくなったら。くすん、と勝手に鼻が鳴った。
自分の頬を叩いて体が震えだしてしまうほどの怖い想像を追い出す。
(私なんかと同じはずないじゃない。だって、その人の痛みは、その人にしかわからないんだから)
語り合って痛みを分け合うにしても、縁にとって自分ほどふさわしくない相手もいないだろうと、薫は目元をこすりながら、口元だけで笑うしかなかった。
(だめだめ、やめよう。そう、夜みたいに静かすぎるからよ。もっと風通しをよくしたら、ここもちょっとは過ごしやすくなるはず)
廊下に出れば、相変わらず人の気配が全く無い。こんな空気は、ひとりぽっちを強調するみたいで、薫はひどく苦手だった。だったら解決すればいい。
(よし、行動開始!)
お昼ごはんの支度にはまだまだ早いし、時間ならあくびが出るほど余っている。
手近な部屋は鍵も掛かっていなく、いくつもの大きな木箱が雑然と積んであるだけの物置だった。硝子が使われた格子窓をがたがたと持ち上げると、思ったとおりの気持ちいい風が吹き込んでくる。もう一つある窓も開ければ、湿って淀んでいた空気が外へ流れ出していく。すぐ近くにある雑木林が長い夏の暑さを残す日差しをさえぎってくれるおかげで、ほどよく涼しい。さわさわと揺れる緑の葉の間からこぼれる日差しは、地面に干菓子を散らしたような模様を作っていた。
念のため、薫はじっと待ってみた。だが屋敷の主が階下に降りてくる気配はなく、やっぱり放っておいてくれるようだ。
気分もますます軽くなり、次の部屋にも遠慮のない足取りで入っていった。
そこは客間らしく、薫が使っている部屋のよりもはるかに豪奢な棚に、きちんと整えられた広い寝台、床の敷物は信じられないくらい分厚くふかふかで、それから随所に見事な木彫りがほどこされた背の高い机が置いてあった。机上には洋燈と糸で閉じられた書物が数冊と、紙束が載っている。
(へえぇ、ふぅん、なぁるほど。私よりおもてなしが必要で特別なお客様用の部屋ってわけね)
誰も見てないのをいいことに、斜め上の天井に向かって小さく舌を出してやる。それでさっぱりと気は済んで、薫はまた窓を開けていった。
が、二つ目の窓を開けた途端に、気紛れに勢いを蓄えていた風が、待ちかねていたように吹き込んできた。
「きゃっ」
強風に相乗りして枯れ葉まで飛び込んできたので、薫は手で顔をかばいながらつい目を閉じてしまった。後ろでばさばさと紙が盛大に散らばる音が聞こえる。風の勢いはすぐにおさまったが、おそるおそる振り返った薫は、すこし前の好き勝手した自分を叱りたくなった。
(うわあ、やっちゃったー……)
紙が床のあちこちに散らばり、一番上にあった書物は半分以上開いていて、そのまま自重でずるりと床に落ちた。
言い訳になってしまうが、薫には部屋に置いてあるものを漁ろうという気持ちはなかった。とくに書物には個人の嗜好が出やすいし、軽々しく扱ってはいけないと重々承知している。
だからといって、盛大に散らかしてしまったのを放置するわけにもいかない。なるべく薄目になりながら、紙に手を伸ばす。指先にさらりとした感触が伝わってきた。ずいぶん上等な紙のようだ。書状用に用意されていたのだろうか。
膝をつき手探りで拾い集めていると、ふと、そこに書かれているのが文字ではないのに気付いた。曲線がたくさんと、印が書き添えてある。
(なんだろう、図録かしら)
手元に引き寄せた紙の一枚を、薫はつい見てしまった。上等な客間は日当たりもいいおかげで明るく、描かれているものがよく見える。
(…………?)
大きさもばらばらな図形が重なり合っている。太いうなぎがコの字に曲がったようなもの、黒く塗られた歪んだ丸いものなど、それらひとつひとつに数字が振ってある。まるでこれが肝要と特筆しているみたいだ。拾い集めた他の紙もこわごわと見た薫は、肺も凍るような寒気が全身を覆うのを感じた。
(なに、これ……これって……)
人の体が、とても詳細に描かれている。それは明らかに女性の体だった。外側の見た目と内側の配置、筋繊維を纏う骨の寸尺まできっちりと記されている。
無意識に唾を飲み込んだ薫の喉がこくりと鳴った。胸の中で、ごく原始的な感覚が、これ以上見てはいけないと警告している。だがそれ以上に、ある予想が薫を縛っていた。その予想は単なる勘違いで、確かめてみればただの医術用図録かもしれない。そうであってほしい。
動きたがらない体を意志だけで動かし、次々と紙を拾っていく。けれどどれもが薫の予想の正しさを裏付けていった。
「ひっ……」
奥の窓近くまで飛ばされていた紙を拾ったとき、薫はとうとう小さな悲鳴を上げた。
刀が左胸を貫き、やや俯いた顔の目は虚ろで、その左頬に刻まれている十字の傷と口の端からは濃い赤色が垂れている。
流れ出たばかりの、真新しい、血の色。
そこに描かれていたのは、紛れもなく薫だった。
たとえ名医の恵だろうと手の施しようがない。一目で分かる。だって、もう、死んでいるのだから。
のろのろと膝でいざりながら、薫は惰性で残りの紙を拾った。あらゆる角度から死んでいる薫が描かれていた。正面から、少し角度をつけながら、顔をごく間近に描いたものもある。呆然と死んだ自身の顔を眺めている薫は、かなり経ってから、紙の端に題辞と雅号が添えられているのに気付いた。
「……か、ばね、人形……外印……」
よく覚えている。ほんの数日前に戦った、黒い覆面の人形師と剣心の会話を、薫はあの戦いの場で全て聞いていた。
―― 造形美を極めた作品はいずれ必ずお見せするとして……
あの夜、どうして雪代縁が自分を殺さずに拉致したのか。その上でどうやって人誅を完成させたのか。そして自分が気を失っている間に剣心達がなにを見たのか。薫の中で、断片的にしかわからなかった事実の糸が繋がっていく。
いずれはとはどのくらいだと尋ねた薫に、「そう長くない」と楽しげに笑った雪代縁の横顔が脳裏をよぎる。
(ああそうか、こういうことだったんだ)
紙束を胸に抱えながら立ち上がると、最後に残っていた書物を拾い上げる。その書物には見覚えがあった。恵が熱心に読んでいるのに興味を引かれた薫に、わかりやすく解説してくれた医学書だ。目の奥が火箸を突っ込んだように熱くなる。書物を思い切り机に叩きつけると、その振動で洋燈が床に落っこちて、派手な音を立てた。もし壊れていたって、薫にはその音すら聞こえていない。
(ここから逃げなきゃ、早く、いますぐうちに帰らないと、はやく、かえらなきゃ)
忌まわしい部屋から一刻も早く出たいのに、なぜか足がもつれて、まっすぐ立っていられない。頭が鉛のように重くてひどく目眩がする。ふらついて、右肩をしたたかに壁にぶつけてしまった。拾い集めた紙がまた床に散らばった。足元に落ちた、濁った目をした自分の死体が目に入る。薫は壁に背中を押しつけながら、力の入らない足を必死に動かして、それが目に入らないところまで逃れようとした。肩が部屋の角の壁についた瞬間、体がびくりと震えた。息をするのがやっとだった。喉のところまで声が出かかっているのに、薄く開いた唇からもれるのはひゅうひゅうとした頼りない呼気ばかりだ。膝が震えて立っていられなくなり、壁にもたれながらぺたりと床に座り込んでしまった。座り込んでしまうと、もうだめだった。次から次に涙があふれて、なんにも見えない。
(もう遅い)
認めたくはない。けれど否定しようのない絶対的な事実が、薫を打ちのめしていた。涙といっしょに、立ち上がる力まで流れ出ていってしまう。
雪代縁の人誅は完成していた。この人形を使い、剣心とみんなの目の前に、死んだ自分を差し出したのだ。
人々の幸せのために自分の心を削ってでも戦ってきたやさしい剣心をどれほど絶望させただろう。
逃げろといってくれた左之助と恵にどれだけ後悔させただろう。弥彦をどんなに傷つけてしまっただろう。
もし今すぐ帰れたとしても、みんなを苦しめたことを、なかったことにはできない。
剣心は自分を守れなかったことを悔いて去ってしまう。
だって、とてもやさしい人なのだ。
あれほどぼろぼろに傷ついても自分を守ろうとしてくれたのに、自分が殺された全ての責を一人で背負って、もう二度と、神谷道場へ戻ってはこない。
自分が逃げなかったせいだ。あの場に残っていないで、雪代縁から逃げればよかった。走って走って、肺が潰れてもいいからどこまでも逃げなければいけなかった。自分が逃げなかったせいで、なにもかもが手遅れになってしまった。
(もう剣心に会えない。剣心がいなくなってしまう。剣心は、もう、帰ってこない)
体の震えが止まらない。薫は恋していた。ひとりぽっちが怖くてたまらなかったのに、剣心がいてくれたから今までがんばることができた。あのやさしい人が恋しくて、どうしようもなく恋しくて、けれど恋をしたことがなかった薫は、あふれる気持ちをどうしていいかわからずに戸惑うばかりで、そんな薫に剣心はかならずやさしく笑いかけて薫を安心させてくれた。剣心の笑顔がとても好きだった。大好きだった。
(けんしん)
いくら自分を責めても足りない。剣心を追い詰めてしまった後悔が嗚咽に変わっていく。
―― ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
口からこぼれでるかすれた情けない泣き声が次第に大きくなり、悲痛な色を帯びていく。
帰り道がわからなくなった幼子のように、薫は泣いた。
硝子が砕ける音に、縁は揺り椅子から上半身を起こして素早く出所を探った。音は下の階から聞こえてきた。神谷薫が皿でも落としたのならもっと籠もったように聞こえるはずだ。だが窓を割ったのなら、これくらいはっきりとした音だろう。
面倒くさいことこの上ないが、この島に来るときに縁が連れた女に興味を示した部下がいたから、無体を強いて神谷薫が抵抗したりすれば、こんな音が聞こえてきたとしても頷ける。
至極不服げに立ち上がった縁は再び階下に降りた。仕方ない、東京に返してやると言った以上は五体満足で送り届ける義務がある。
(どうして俺があんな女を気にしてやらなきゃいけないんだ)
苛立ちながら一階に降りた縁は、すぐに一人分の気配しかないのを読み取った。縁は首を捻った。多少信頼の置ける部下に邸周りの警戒を命じているから、用のない人物が入ってくればこうしている間にも報告がくるだろう。逆に神谷薫が思いあまって逃走を企てても丁重に戻されるだけだ。想定される騒動があったにしては静かすぎる。神谷薫を置いている部屋ではなく、別の部屋に気配があるのも不可解だった。
(あいつ一体何をやらかしたんだ)
もう一つの客間の扉が僅かに開いている。外印が使っていた部屋に足を踏み入れた縁は、まず床一面に散らばっている紙に唖然とさせられた。机の横には派手に割れた洋燈がある。窓も全て開いていて、そのせいで洋燈の割れる音がベランダにいた自分に聞こえたのもわかった。部屋の惨状に気を取られて、隅に近い壁にもたれて座り込んでいる薫がすぐには目に入らなかった。やっと存在に気付いて文句を言おうとして、
「お前、ここで何をし」
らしくなく、台詞が途中で止まった。
神谷薫は縁がかけた声など聞こえていないらしく、俯いて、声も上げずに涙を流している。
一歩近づいた縁は、靴の下で踏んだ紙を何気なく取り上げた。人誅の要であった屍人形の絵図だった。
あの美しい死に顔をぜひ描き残しておきたいと、神谷道場から引き上げている最中から外印は洋燈の下で一心不乱に筆を動かし続けていた。縁がとりあえず抱えていた神谷薫を渡すようにもしつこく要請されたが、全て無視してやったのを覚えている。
ともかく、これを見た神谷薫が人誅の全容を悟ったのだと理解できた。つまらなそうに息をついた縁は、手に持った紙を無造作に放り捨てた。
(そうさ、お前なんかを殺せないからここまで手間をかけなきゃいけなかったんだ)
殺せるものならとっくに殺していた。だが、姉を殺した抜刀斎と同じになることは、縁にはどうしても耐え難かった。
抜刀斎と同じになれば、姉が笑ってくれなくなると本能でわかっていた。だから時間と手間とつまらない小細工を念入りに施してあの夜の戦いの場を作ったのだ。そうして縁は本懐を遂げた。なのに姉は笑ってくれなくなった。その理由がわからなくて、自分は今苦しまなければいけなくなっている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
哀れっぽく掠れた声に、縁は神谷薫に目を向けた。いい気味だと思った。泣きじゃくる醜い顔を見てやろうと、黒眼鏡を外し机に置く。
「一体誰に謝ってる。抜刀斎にか。気にするな、お前が悪いわけじゃないさ。姉さんを殺した罪人が相応の罰を受けただけなんだからな」
縁は散らばった紙を踏みつけながら神谷薫の近くまでいくと、片膝を床について目線を合わせようとした。女は俯いていて、縁が目の前にいるのもわからないようだった。聞こえていようといまいと別に構わなかった。
「感謝してるぜ、お前の犠牲のおかげで人誅は完成した。あいつは失意の底でじわじわとくたばる。これほど似合いの末路はないだろう?」
淡々と言う間も、神谷薫の目からはらはらと涙がこぼれ落ちている。その涙が、どうしてだか縁の目を引く。神谷薫に対して欠片も負い目など感じていない。感謝していると言ったのも本心からだ。神谷薫は、天が采配してくれたとしか思えないほど、実に都合のいい駒だった。
「……お前が全てを知るのはもっと後の予定だった」
口調に、少し苦いものが混じる。先だろうが後だろうが、この娘の哀しみは変わらない。姉と同じ境遇になる女がどうなるかは、意識して頭の中から締めだしていた。東京で放り出せば見なくて済むはずだったのだ。後は知ったことか。
「お前は本当に役に立ってくれたからな。送り返すついでに金を持たせてやる。せめてもの礼だ。使おうが捨てようが勝手にすればいい」
神谷薫の泣き声がだんだん大きくなっていく。小さな白い手を床の上できつく握りしめ、総身を震わせ、引き絞るような声を上げて、泣き続けている。それがあまりにも耳障りで、縁は右手で神谷薫の肩を乱暴に揺すった。
「おい」
神谷薫はびくりとして、逃げ場を求めてか華奢な体を引いて背中を壁をつけた。大きな黒い瞳は水に浸かったようで、縁が見えているかは定かではない。だが、泣き声は一旦収まった。肩から手を離し、内心ほっとしていると、神谷薫の唇がかすかに動いた。
「……たい」
「は? 何だって?」
「かえ、りたい」
しゃくりあげ、涙を溢れさせながら、神谷薫は途切れ途切れに、苦しげな息の下で言った。
「おねが、い……うちに……うちに、かえりたいの……」
縋るような声が、抗う間もなく縁の魂を最後に姉と話した日へ連れていく。
―― さあ行こう、姉ちゃん
―― なんで俺と一緒に来てくれないんだよ
―― なんでアイツをかばうんだよ
(どうして俺の手を取ってくれなかった?)
縁はまだ幼くて、何の力もない、ただのガキだった。姉に帰りなさいと言われて、すごく腹が立った。姉が自分を巻き込むまいとしているのもわからないで、大声で責めてしまった。結局姉は何も応えてくれず、すごすごと戻るしかなかった。
どれほど後悔しただろう。縁が最後に見たのは、悲しげな、痛みをこらえる表情だった。なによりも大切な姉を傷付けてしまった。
姉が惨殺された後、縁が意識を取り戻したときには既に何も残っていなかった。姉の血がついた雪を爪が剥げるほど必死にかき集めたのに、赤い雪は縁が触れると溶けてしまって、指の間から零れてしまい、土に染みこんで、姉が生きていた証はどんどん消えてしまう。ようやく見つけられたのは、姉が大切そうに持っていたありきたりな簪だけだった。
あの時から、姉の仇を討つにはどうすればいいかを縁は何度も何度も考えた。気が遠くなるほど長い時間をかけて考え続けた。
(違う)
たった一言でよかった。姉が縁を必要とする言葉を言ってくれていたら。こんな風に泣いてくれたら。
「一緒に逃げればよかったんだ」
嫌がられても怒られても泣かれても、子供の縁でも全力を尽くせば、無理矢理にでも手を引っぱって逃げられたはずだ。
(そうしていれば姉さんは生きていたかもしれない)
取り返しのつかない間違いを犯したことを縁は理解した。謝りたくても姉はもうどこにもいない。魂には触れることも出来ない。何も応えてくれない。あまりに明確な答えに、疲れきった心がいっそう空虚になっていく。
縁の身を焦燥が焼いた。間違いに気付いたからといって今更遅い。自分は抜刀斎が地獄に落ちていくのを見届けなくてはいけないのだ。今まで通りに憎悪を掻き立て、精神を奮い立たせなくては。
ふと、まだ泣き続けている神谷薫に気が付く。姉の代わりの女が、情けない泣き声を上げて誰かの助けを必要としている。姉と同じ境遇になった神谷薫の泣き声を聞くのは耐え難い。それに、空虚感を紛らわすものが欲しかったのかもしれない。
どうやったらこの泣き声を止められるだろう。縁は静かに右手を伸ばしてみた。右手を彷徨わせた縁は、とりあえず、うなじを掴みながら引き寄せ、神谷薫を自分の胸に押しつけてみた。片手しか使えない状態だったから、危うく後ろに倒れるところだった。咄嗟に体の芯に集めた力を使って、無様に転がるのは避けられた。絨毯が敷かれた床に座りこんだ縁は、すっぽりと薫を抱き込む形になった。神谷薫は肩を震わせてはいたが、泣き声はくぐもったようになり、多少はマシになった。縁にされるがままなのは、逃げ出す力も残っていないからだろう。
「……返すわけにはいかない。あいつがくたばってからだ。そう長くはないから待っていろ」
縁の言葉が聞こえでもしたのか、薫の体がくたりともたれかかってきた。床に力なく落ちた白い手は自分と比べるとずいぶん小さい。手だけではない。とうに大人になってしまった自分の体には、神谷薫は小さすぎた。姉もこんなに小さかっただろうか。
だが体温は同じだった。生きていて、温かい。その温かさがどうしてか心地良い。遙か昔に失ってしまったやさしい感覚は縁の手に余った。突き放せばいいだけなのに、そういう力を使うことを体が拒否している。
溶けだすように、体中から余計な力が抜けていくのがわかる。こうして寄り添っているだけで、驚くほど心が安らいだ。ちっぽけな小娘を抱いているだけなのに、あれほど乱れていた気持ちが不思議なほど凪いでいく。
「俺は姉さんを責めたんだ……なのに黙ったままだから、もっと怒ったんだ……何を考えてるかわかってやれなかった……姉さんにとっても俺がいちばん大切なはずなのに、裏切られた気がして悔しくて……あいつが憎くて妬ましくて……」
胸の底に澱んでいた後悔を抵抗なく吐き出せた。
温かい体が、縁が失ったものを少しだけ取り戻せたように錯覚させる。まだ泣いている薫の体を抱いていると、縁の視界もだんだんに歪んでいった。縋るように薫の背中に回した右腕に力を込める。
「……お前みたいに泣いてくれたら……間違わなかったんだ……」
声が滲む。縁も泣いていた。姉を思って泣くときはいつも一人だった。喪失の痛みは一人で片付けるしかなかったからだ。なのに薫を抱いていると、ごく素直に涙を流すことができた。泣いている者同士だと、普通よりも、涙を流すのに抵抗がないのかもしれない。薫の温かい体を抱きながら、縁は初めて誰かと一緒に泣いた。
泣けば泣くほど、薫の中から日々を生きていくための力が失われていく。
朝日を全身に浴びてから一日を始めたり、一心に稽古に打ち込んだり、家族とも思える仲間とちょっとしたことで笑い合ったり、生意気を言われたら頭にきて言い返したり、ごく当たり前にできていたはずなのに、きっと体は動いてくれない。ちょっと前の薫なら、そんな自分の不甲斐なさをしっかりと律し、また立ち上がれたろう。
なのに、失ってはいけないものが涙と共に流れ出ていくのを、薫はどうすることもできないでいた。
自分が、恋しい人を、大切な人達を苦しめた。いくら責めても足りない。罪悪感に心が押しつぶされていく。
なにかが突然肩に触れて、ほとんど恐慌状態の薫は反射的に体を引いていた。涙で視界がぼやけてよく見えないが、白い色がゆっくり揺れているのはかろうじてわかった。一体いつの間に入ってきたのだろう。目の前にいる雪代縁がなにかしゃべっているようだったが、上手く聞き取ることもできない。聞き取れる余裕など薫にはなかった。雪代縁が怖くて恐ろしくて、ますます泣けてしまう。
―― うちにかえりたい
死んだ自分に帰る家など、どこにあるというのだ。あれほど安らげる居場所を、自分が全部めちゃくちゃに壊してしまったのに。悲しんだ人達のことを思うと、薫はどうしても自分を責め続けずにいられない。
(わたしのせいで……なくなっちゃったんだ……)
涙は涸れる気配もなくあふれ続ける。
このまま泣き続けていたら、目が溶けてしまうだろうか。それでも構わない。少なくとも雪代縁を見なくて済む。
この人をどう思えばいいのか薫にはわからなかった。
真正面から見るのは怖い。この人の境遇に悲しい思いを抱くようになってしまった。この人が自分を殺してみんなを傷付けた。この人が殺せなかったから自分は生きている。
薫は幼い頃からまわりの人達にたくさんの愛情をもらって育った少女だった。
愛してくれる人を愛し、大切に思うものを大切にする。確かに世間がいつも優しかったわけではなかったが、精一杯生きる日々が、共に過ごす人が、薫にはなによりも大事だった。
だから人を憎むやり方は知らなかったし、感情の余裕もなかった。心は罪悪感で黒々と染まっている。泣いているせいで上手く呼吸ができずに苦しい。
(……ぜんぶ、わたしのせいで……)
冷たい漆喰壁が、ひとりぽっちに戻った薫の背中を黙って支えている。
「一緒に逃げればよかったんだ」
ひどく重い声で、雪代縁が言った。
(にげれば、よかったのに)
そう、自分が行動を間違えたせいだ。頭の中心がずきずきと痛む。奥歯を食いしばって耐えようとしたが、息を吸う度に唇が震えて、みっともない泣き声を止められない。
首のうしろになにかが触れたのを感じた途端、薫は雪代縁に抱きすくめられていた。力加減などちっともなくて、固い胸板にぶつけた鼻先がじんと痛む。こんなことをされたら、本来の薫なら、無礼な真似にくってかかっていたろう。そうするには、気力を失いすぎていた。雪代縁がどうしてこんな真似をするのかも考えられない。
「返すわけにはいかない。あいつがくたばってからだ。そう長くはないから待っていろ」
(あいつ……くたばる……)
二度と会えないだけではない。この世のどこにもいなくなってしまう。恋しい人をひとりぽっちで死なせてしまう。
(けんしんが、死んでしまう)
薫の中にかすかに残っていた心の芯があっけにないほどもろく砕けていく。かろうじて心と体を繋いでいた糸もぷつりと絶たれ、全身から力が抜けてしまう。薫の小さな体を、今度は雪代縁が支えることになった。
受け入れるにはあまりにも辛い現実が両肩に重くのしかかり、容赦なく薫を潰していく。絶望に目を閉じると一際熱い涙が流れた。
目を閉じた先にある闇が手招きしているのがわかる。その闇は、なにもかもが手遅れだから諦めていいと、まるでやさしく諭しているようだった。いくつもの血を流す傷を受けた薫の魂は、甘い誘いに耐えうる力などない。迷子が手を引かれるままについていこうとして、ぎゅうっと、いきなり息が詰まった。思わず目を開けてしまう。
「……お前みたいに泣いてくれたら……間違わなかったんだ……」
薫は押さえつけられている体をなんとか動かして、息苦しさから逃れようとした。呼吸しやすいように斜め上に顔を向ける。雪代縁が、白い睫毛を濡らして、ぼろぼろと泣いている。自分のものではない涙が、ぽたりと薫の頬に落ちた。
(もう遅いの、もうまちがえてしまったの)
自分はけして許されない間違いを犯した。だから大切な人たちと大事な居場所を失ってしまった。ひとりで過ごす夜がまたやってくる。それが怖くてたまらない。全身に走る怖気に、薫は無意識に手を動かしてすがるものを探した。掴めるものはすぐ近くにあった。上手く力が入らなくて、指先をもたつかせながら、薫は雪代縁の胸元のあたりをかろうじて掴んだ。間近に鼓動が聞こえる。それが雪代縁のものでも普通と人と変わらない。
こうして誰かにもたれていると、母に抱っこしてもらった幼い頃を思い出す。母はいつでも抱きしめてくれた。怖い夢を見てしくしく泣いていると、母がすぐに抱き上げにきてくれて、だいじょうぶ、お母さんがいるからだいじょうぶ、とやさしい声でずっとささやいてくれた。あんなに温かい場所から、こんなにも遠く離れたところにきてしまった。
(ごめんね、ごめんね、ごめんなさい……)
もう何度謝ったろう。それでも、心の中に浮かぶひとりひとりに、謝らずにいられない。いままでのしあわせを、全部自分が壊してしまった。また新しい涙があふれてきて、雪代縁の服をすこし濡らした。
目を閉じれば、あの闇が間近にある。甘く誘う闇に全てを委ねてしまえれば楽になれる。お腹が減ったから食べる、眠くなったから寝る。体が求める欲求と同じだ。今薫が求めているのは、闇の中に潜り込むことだ。
―― たすけて
いままで精一杯がんばってきた薫の魂が、残った力を尽くして抗おうとしている。闇が怖い。あの中に入ってしまえば神谷薫は生きていられない。生きるのを諦めたくないと、ほんの欠片だけ残った魂の、弱々しい声が聞こえる。
(でも、わたしが逃げなかったせいで、みんなを苦しめているのに)
厳しく責める自分の声が耳の中に響く。闇に身を沈め、永遠に自分を責め続ける以外の道しか残っていない。それほどに自分の罪は重く、皆に申し訳なかった。ほんとうは、あの絵こそ本物で、自分はとうに死んでいるのが正しいのかもしれない。左頬を伝う涙は赤い色をしているのではないか。胸を穿つ痛みは凶刃に貫かれたからではないか。
雪代縁が右腕の位置を変えながら、薫の髪に鼻先を埋めてきた。薫の途切れかけていた意識を、首筋を掠めた熱い吐息が呼び戻す。それで自分もかろうじて息をしているのがわかった。わかったところで、いまの自分は生きていると言えるだろうか。
(たすけて、たすけて……だれか……)
雪代縁に抱かれているのが、他人事のように遠い。
それでもいまは、なにかに縋っていないと、ほんとうに魂を手放してしまいそうだった。底知れぬ闇が薫を迎えようと、すぐそばで待っている。どこまで追いかけてきて、薫を呑み込もうとする。一人ではとても耐えられない。なんでもいい、誰でもいい。涙に濡れた頬を温めてくれているものから離れたくなかった。こうしていれば、薫を攫おうとする闇は、薫以外の存在を忌避するように、ただ蠢いているだけだった。
ほうっとため息がこぼれる。生きていたいと願う魂が、止まり木を見つけ、思わずこぼしたような切ない吐息だった。
それでも心の中から罪悪感は消えるわけではない。すぐに己を咎める声がまた聞こえはじめる。身動きできなくなるような鋭く尖った声が、薫の落ち度を非難し、責めている。耳を塞ごうとまとわりつくその声は、薫の内側から発せられるものだった。恋しい剣心の死を招いたことを、きつく、思い知らせるように責められ、薫は近くの温かいものに額をこすりつけた。
(ごめんね、ごめんね……)
あんまり申し訳なくて、体はますます小さく縮こまる。なのに、まだ生きていたいと消えかけた魂が言っている。どちらの声を聞けばいいのか、もう薫にはわからなかった。ただ辛くて苦しくて涙があふれた。
(全然違うな)
先に落ち着きを取り戻した縁が最初に思ったのは、大きな違和感についてだった。
(姉さんはこんなに小さくなかった)
易々と背中に腕が回る。片腕で充分足りた。姉は確かに小柄で儚げな容姿だったが、縁が覚えているのは少し見上げたときの姿だった。楚々とした立ち姿は、いつも縁を誇らしい気持ちにさせてくれた。成長期前の少年だった頃の記憶にある姉の姿は、いまでも変わらない。
よりにもよって自分に縋ってめそめそと泣き続けている薫は、どう贔屓目に見てやっても、みっともないと言うほかない。
「ごめんね……ごめんね……」
鼻声で謝罪を繰り返すばかりで、まるで叱られた子どものようだ。とても姉の代わりとは思えない。姉が泣くところを見たことがない縁からすれば、有り体に言えば、幻滅していた。
(それにいつも白梅香を纏っていた。……こんな甘ったるい匂いじゃない)
整った鼻筋を黒髪の中に埋めながら、縁は少しぼんやりとした。水煙草とも違う、やたらにむしゃくしゃする甘い匂いがする。薫の年頃くらいの女なら、もっと身に纏うものに気を遣ってしかるべきだ。そういう幼稚さは姉とは全く違う。
(まあ、今となっては無理だろうがな)
拉致した当人である縁は、ひそかに笑った。そうして自分が笑ったことに、少し驚いた。
(……なんで笑っているんだ、俺は)
胸の内を吐き出したおかげで幾分気分が良くなっているとはいえ、憎悪の対象でしかない女にすがりつかれた状況で、笑うなど。放り出してもよかったが、薫が小さな手できつく縁の服を掴んでいるから、どうしてか身動きが取れない。
(馬鹿な女だ)
自分こそが抜刀斎を地獄へ落とす策略を巡らせ、この女をこの上なく不仕合わせな境遇に落としてやったというのに、仇になる自分に縋っているという奇妙な状況には呆れ果てる。いい加減に立ち去ろうと体を動かす素振りを見せると、薫は慌てたようにますます縁の服を強く掴んでくる。見下ろしたすぐ近くにある細い肩は、あいかわらず小刻みに震えている。
つくづく不思議な娘だった。自分と向き合っても怯えもせず啖呵を切ってきた態度や、あたりまえのように食事の後片付けを引き受けたときの気安い対応と、すっかり縮こまって泣いている薫が、縁の中でうまく結びつかない。縁を謀ろうという様子もなかった。なにしろ縁はいま隙だらけだ。薫がどこかに、例えばあの割れた洋灯の硝子片を隠し持ちながら縁の不意をつくというなら、これほど絶好の機会はない。抜刀斎の最期を見届ける仕事が残っている縁は、長年のやり方と同じように、表では隙を見せながら、表情の裏では神経を尖らせ警戒を怠らなかった。まだ死ぬわけにはいかない。
なのに薫は、この機会を生かす気配などまるでない。
(こいつがこんなに弱いはずない)
そう思った瞬間、ひらめくように縁は理解した。
(同じだったのか)
許嫁の死を知らされたあとの、どこか遠くを見る目をした姉を、縁は思い出していた。幼い自分はなんと声を掛けて良いかわからずにいるうちに、姉は単身家を出てしまった。もちろん縁は追いかけた。姉一人では危ないと思ったのだ。
子どもだった自分は闇乃武という組織に拾われ、連絡役として抜刀斎を殺すための機会を待った。
ようやく時が来たとき、姉は抜刀斎と暮らしていた。狭くとも生活の色がある家には、静かで穏やかな時を過ごしていたことがうかがわれた。あのときの違和感を、幼い縁は黙殺した。すべては仇を討つためなのだと。
(違う、姉さんはあくまで演じていただけだ、あの男を確実に殺すために―― )
半ば茫然自失になりながら、縁はあらためて薫を見下ろした。大人になった縁に比べれば、あまりに脆弱で小さな体が、そこにある。深い悲しみに涙することしかできない、弱い生き物だった。
(そんなはずない、姉さんはもっと強い人だった)
否定すればするほど、胸の内に居る姉の姿が鮮明になっていく。感情を宿さない瞳で佇む姉の線の細さはいかにも頼りない。今の縁が腕を一振りすれば、他愛なく吹き飛んでしまうだろう。
はじめて縁は、今の自分と姉を比べたのだった。とうに大人になった縁は、姉よりもずっと背が高く、骨の太さまで根本的に違う。喉から湧き出したひどく苦い味が舌に広がっていく。
(姉さんは俺ではなくあいつを頼ったんだ)
今の自分なら、手を引いて逃げる必要などない。この身一つで姉を守り切ることができる。
最初から、子供の自分では駄目だったのだ。
(そうか、姉さんはわかっていたんだな。ガキの俺じゃなにもできないって、姉さんを助けられないって)
相変わらず姉はなにも答えてくれない。だが答えてくれないからこそ、縁の推測はいっそう正しく証明されたようなものだった。
(そんなにあいつが頼りになったのか? 俺よりも?)
いいや、違う―― と縁は、手繰り寄せたばかりの答えを見つめ直した。
(誰にも頼れなかったんだ)
はじめに許嫁だった清里の次男坊が殺された。そして父親と自分の前から姿を消した。そのあとに姉に関わったのは他人よりも冷たい男達だった。姉はたった一人で飛び込むしか無かったのだ。誰の力も借りず、一人でやり遂げるために。芯の強い人だったが、その間、上手く周囲を欺き続けられるか、不安を感じなかったはずはない。
「……すけて…たすけて……」
薫の切れ切れに救いを求める声を聞きながら、縁は深く溜息をついた。
(丁度こいつと同じくらいの年頃だった)
姉もまた、どうしようもない状況に置かれてしまった、ただの娘だった。まだぐずぐずめそめそしている薫を見下ろしながら、縁はだんだん笑い出したくなった。
「そうだよな、ひとりじゃやりきれないよな」
縁に憎悪一つ向けることもできない薫と同じだ。ただの娘が、たった一人でどうやって復讐を遂げるのだ。
大きな混乱を抱えたまま、あの白く華奢な手でできる限りの努力をした姉を思うと、縁は深い同情を抱かずにいられなかった。誰でもいいから泣きつきたかったに違いない。たった一人きりで戦う怖さを吐き出してしまいたかったろうに。
(本当はこれほど弱いくせに)
右手で薫の下顎を押し上げ、顔を上げさせる。薫は怯えたように息を呑んだ。それでも涙は流れ続け、両頬は雨に打たれたような有様だ。元から、救う方法などありはしない。この女の不仕合わせは全て自分が作り出したのだ。縁が描いた筋書きでは、どうやっても薫は不仕合わせになるしかなかった。罪悪感だって欠片も抱いていない。
それでも縁を動かしたのは、姉を泣かせてやれなかった後悔だった。目の前で泣いている薫を慰めてみたところで既に取り返しがつかないのはわかっている。大体、泣きじゃくる娘になにをしてやればいいか見当もつかない。
ひとまず、親指の腹で涙をぬぐってやる。熱を持った頬はやたらにやわやわしていて、軽い力で指が沈む。目の際に触れても、薫は目を閉じはせず、縁をぼんやりと見上げるだけだった。
片手だけしか使えないと、ただ涙を拭うだけでも、腹立たしいほどに捗々しくない。薫はかなり長く泣いていたから、いつまでも湿り気が残ったままだ。だから、うっかり左手も使おうとしてしまった。三角巾で吊っていた左腕が縁の上半身を傾かせた。睫毛が触れあうほど顔が近づき、唇同士が触れ合った。大きな瞳が見開かれるのが間近に見えた。
薫の肩越しに右手を壁について姿勢を直した縁は、口を開こうとしたが、台詞が上手く出てこない。数回まばたきする程度の間のことだったが、あまりにらしくない失敗に狼狽していた。
(ああ、くそ)
この程度で言葉を詰まらせるなど、あまりに自分らしくなかった。女を知らないわけじゃない。なのに気持ちを掻き乱されている。
(どうしてだ? 思い入れもない女なのに? 抜刀斎が姉さんの代わりにしているからか?)
苛立たしげに頭の横を掻きながら、縁は立ち上がろうとした。この動揺の原因である薫から離れるべきだと思った。
膝を立ててその場から去ろうとする縁の右手を、薫はひどく慌てて掴んだ。掴むというより必死に縋ったというほうが正しい。首を振りながら薫は言った。
「いや、ひとりにしないで」
立ち上がりかけた縁の右手がぐっと引き寄せられる。小さな爪が縁の手首に食い込んだ。痛みなどあるわけないのに、いやにちくちくとした感覚が鮮明だった。
「おねがい……おいて、いかないで……」
(五月蠅い、そんな声で言うな)
弱々しい薫の声は、縁をやたらに苛立たせる。頭から怒鳴りつけて振り払ってやるのは簡単だ。だが泣いている薫を放り出すことは、ついに出来なかった。
まためそめそと泣き始めた薫の前で、仕方なく、ゆっくりと胡座をかく。その間にも薫は縁の手を胸元近くに抱いて、離そうとしなかった。されるがままに、縁は右手を貸してやるしかなかった。全身で息を吐いてから、縁はようやく口を開いた。
「お前、ずるいぞ」
吐き出した息に混じる自分の声に全く覇気が無くて、縁はまた泣きたい気分だった。
姉と同じになる存在を無視しようと意識して努めていたのに、この女は、縁が欲しくてたまらなかった言葉をぶつけてくる。仕草で示してくる。態度で雄弁に伝えてくる。
「俺じゃあ駄目だったんだ……ちくしょう……」
悔しさで目頭が熱くなる。向き合おうとしなかった事実が重くてたまらなかった。姉が笑ってくれなくなってからも、躍起になって遠ざけてきたのに、この女が、頭上から被せてきた。その遠慮の無い仕打ちに、抗えずに座り込むしかなくなった自分が情けなくてたまらない。
「おい、いい加減泣くのはやめろ」
言い方を選ぶのも面倒くさかった。縁の声が聞こえているのかいないのか、右手はまだ小さな両手にかき抱かれている。薫の手は縁の体温よりも温かかった。姉以外から、大切なもののように触れてもらうのは、一体いつぶりだろう。薫に抱かれた手から、疼痛とぬくもりが同時に感じられて、鼓膜の内側で醜く軋む音がする。
「聞こえないのか? みっともないから泣くなって言ってるんだ。ああくそ、お前なんか放っておくんだった。悔しがる顔を観察してやるつもりだったのに、お前なんかのせいで―― 」
姉が本当は弱い人間だったと、ようやく理解できた。少し想像力を働かせればわかることだったのに、ずっと避けていた。縁を愛してくれた姉は、弱さ故に死を選ばなければいけなかった。自分は姉を守ってやれなかった。そのことがただただ悔しい。
悔しくて重いものが、胸の真ん中に虚ろな穴を広げていくのがわかる。
「……最悪の気分だ」
(ごめんよ姉さん)
なんの裏も無い気持ちで、縁は胸の中にいる姉に語りかけることができた。置いていかれた寂しさや言葉を聞き入れてくれなかった頑なな態度を、縁は初めて受け入れることができた。姉はまだ笑ってはいない。だが、その表情に心が以前ほど乱れないのがよくわかる。姉と同じになった薫が目の前で泣いたせいだ。悲嘆にくれた泣き声がまだ耳に残っている
姉もまた弱い人だった。どうしてもっと早くわかってやれなかったのだろう。
どんなに悔いてももはや手遅れだった。それを縁にまざまざと見せつけたのは、抜刀斎が代わりに選んだ女だ。駒に過ぎないはずの小娘に、為す術なく翻弄されているのを、認めなければいけない。
「……ほんとうに、とんでもない女だな」
顔を上げた縁は、ぎくりとした。いつの間にか薫が顔を上げている。涙に濡れた黒い瞳が、じっと自分を見つめていた。その眼差しに力強さは感じられないのに、まるで吸い込まれるような、深い色をしていた。深くて黒い、底すら無い色は、縁の視線を絡め取りどうにも動かせなくする。
(こいつ、なんて目をしやがる)
唾を飲み下した喉が大きく動く。なんの手練手管も持たないただの小娘の瞳に、感覚を全て奪われていた。またやわらかい薫の頬に触れたくなる。喉は乾いてひりついている。背骨を昏い欲望が撫で、しきりに縁を煽っていた。
(嘘だろう、なんでこいつなんかに)
縁が身動きできないでいるのに、薫はなんの邪気もない瞳を向けたまま、縁の手を握り直した。細い指先に触られただけで尾骶骨がぞわりとする。かすかな吐息が熱いのに、縁は気付かないわけにいかなかった。
薫に目論見などないのはわかりきっている。こうやって縋るための存在が、たまたま自分しかいなかっただけだ。
不仕合わせにした男でもいいから縋りたいという薫の弱さを、一蹴してやるのは容易い。だが縁の目には泣く薫の姿が姉とどうしても重なってしまう。捨て置けば胸の内にある空虚さがますます広がるだろう。
仮組みでもいいから、穴を塞ぐ物が欲しいのは、縁も同じだった。埋めるだけなら目の前にいる女に手を伸ばせばいい。簡単だ。
(だがこいつは抜刀斎の女だ)
頭の隅に、よりにもよって薫に情欲を抱いた自分を侮蔑する理性がある。なのに手を振り払えない。喉の渇きはひどくなるばかりで、内側から掻き毟りたいほどだった。
縁の逡巡などまるで知らないで、薫は相変わらず縁の右手を触りながら、ねだるような瞳で見つめてくる。
ふと思いついたように、自分の湿った頬に、縁の手のひらを導いた。人懐こい子猫のように頬をこすりつけて、ほうっとかすかに安堵の吐息をもらした。頬が手のひらにやわらかくくっついて熱い。くらりと意識が逆さになって、縁は奥歯を強く噛んだ。右手をずらして華奢なうなじを掴むと、たやすく引き寄せることが出来た。ほどんど噛みつくように合わせた唇は、塩辛い味がした。
「そうだよな、ひとりじゃやりきれないよな」
ぐいと顔を上げさせられた薫は、新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。縁の胸に強く顔をこすりつけているうちに、また息苦しくなっていたのだろう。息がしづらいのもわからないほど、今の薫は大きな混乱の中にいた。こうしている間にも剣心はどんどん遠くへ行ってしまっている。いくら呼び止めようとしても、どうしてか声が出ない。
(……ひとりぽっちはいや……もういや……)
恋しい人を失う。鋭い痛みが、容赦なく心を裂いていく。少し前までは頑張って前を向くことができた。だが、深い無力感が、立ち上がる力すら奪ってしまう。そんな自分が嫌でたまらないのに、もう一歩だって動けそうにない。
まだ生きていたいと願う魂が、どんどんすり減っていくのがわかる。このままでは見えないくらい薄っぺらくなって消えてしまうとわかるのに、自分を奮い立たせるための力がどこにもなかった。涙と一緒に、体から全部流れ出てしまっていた。
(あ……)
温かいものが、頬に触れた。ゆっくりと涙をぬぐってくれている。
(……?)
視界がぼやけて、よく見えない。でもとても温かい手だ。具合を確かめながら、大きな手が濡れた頬に触れている。
(おかあさん……おかあさん……)
小さい頃はじっとしているのが苦手で、よく庭に飛び出しては遊んでいた。自分の影と追いかけっこをして飛び跳ねていたら、石ころを踏んづけてしまって、ぺしゃりと転んだことがある。すりむけた膝はぴりぴりと痛くて、どうしても泣けてしまうのだ。すぐに母が抱き上げにきてくれて、泣き止むまでゆすってなだめて、やさしい声で名前を呼んでくれた。そうやって、いつも薫をほっとさせてくれた。
母も、父も、そして剣心も、もういない。それでも薫は、もっと触れてほしかった。頬でも、髪でも、どこでもいい。そうして、もうだいじょうぶだと、言ってほしい。
ふいに影が覆い被さってきた。ぼやけていた視界の中に黒い色が現れる。いっとき戻った焦点は、誰かの瞳を映した。底の無い、真っ黒な色が見えたと同時に、唇にやわらかくて温かいものが触れた。まったく知らない、けれど、もっともっとと求めてしまうほど、やさしい感触だった。あわい感触はすぐに離れてしまって、惜しむ間もなく消えてしまう。ほっとしかけたから、余計に辛い。どうして離れてしまうんだろう。
(ぜんぶわたしのせいだから)
薫の弱り切った心がまた自分を責めはじめる。恋しい剣心が案じられてたまらないし、剣心を探す仲間の姿が脳裏にありありと浮かぶ。とても大切な人だった。失ってはいけない人だった。薫は重い責任を感じている。のびやかだった心はいまや罪悪感でいっぱいだった。咎を与えようと、どこまでも深い闇が、間近で手ぐすねを引いて、少女の心を喰おうと待っている。
しがみついているものが身動きした。自分を置いて、どこかにいってしまう。薫は恐怖した。
(だめ)
離れていこうとする温かいものを、無我夢中で掴む。
(いや、ひとりにしないで)
薫の大切な人は、みんな遠くにいってしまった。引き止める資格など自分には無い。そうとわかっていても、ひとりぽっちになるのは怖かった。ただの隙間風がかぼそい悲鳴に聞こえる夜をまた一人きりで越えるなどできない。
薫にはとっさに掴んだのがなにかも確かめる余裕もなかった。ひとり取り残される恐怖に耐える力はもう残っていない。掴んだものがどこかにいってしまわないよう、ぎゅうっと抱きしめる。温かさが伝わってきて、ぽろぽろと涙が落ちた。
(おねがい、おいて、いかないで)
また頬を撫でてくれないだろうか。たださわってくれるだけでもいい。切ない願いを伝えようと、薫はますます縁の手を強く抱きしめた。
「お前、ずるいぞ」
(……ずるい……?)
こんな失礼な言い方をされれば腹を立てて当然だ。けれど薫の中にかすかに残っている魂には、たしかな響きを伴って聞こえた。いちばん大切な剣心を死なせてしまうというのに、魂はまだ生きたいと願っている。
だから、ずるいという言葉は、薫の心にひとつの堰を作り出した。大切な人達を苦しめている事実を咎める声はまだ聞こえている。強い罪悪感は薫を縛り上げるように纏わりついている。責任を取れと容赦なく責め立ててくる。
そうした声から逃れたいと思うのは、ずるいことだろうか。悪いことなのだろうか。
涙を一生懸命我慢して、引き寄せているものを見下ろす。抱きしめているのは、ごつごつした手だった。親指と人差し指の間が堅くてつるつるしているところが、自分の手とよく似ている。そんな些細な共通点があるだけで、ほんのちょっとだけ呼吸が楽になった。
さっきみたいに、またこの手が撫でてくれたら。
己の声に責め続けられ、息も出来ないほど苦しい状況から逃れたかった。間に合わせの頼りない堰だったが、その陰に逃げ込めば、少しだけ楽になれるかもしれない。
薫が顔を上げてみると、眉頭を寄せて難しい表情をしている縁がいた。縁はしきりになにか喋っている。鼓膜の中にぼわりと熱い空気があって、なかなか上手く聞き取れない。
「―― いで、最悪の気分だ」
(……うん)
ついつられてうなずきたくなるほど、最悪な気分だった。薫を責め続ける声に、心はすっかり弱り切っていたし、体のどこにも力が残っていない。荒稽古に打ち込んだときですら、これほど疲れたことはなかった。
―― おねがいたすけて
すり切れた魂が懇願している。打ちのめされ、責められることに耐えられなくなった魂が、なんでもいいから支えてくれるものを欲しがっている。
薫が開け放した窓から、涼しい風が吹き込んできた。それに誘われたのか縁が視線を上げる。
真っ黒な瞳に、荒っぽい光が宿っている。縁が怒っているのか、それともなにか考えているのか、薫にはよくわからない。ただ、こんな風に力強い色が、うらやましかった。自分はもう二度とがんばれそうにない。
(つかれたなあ……)
まだ握りしめている縁の手に視線を落とすと、ほとんど無意識に、引き寄せていた。縁の手は薫の頬を覆ってしまうほど大きく、温かい。こうやって撫でてくれるひとが、薫にもいたのだ。自分のせいで失ってしまった温かさがなつかしくて、唇が勝手にふるえる。思う存分泣かせてくれるやさしい手が恋しい。泣きたいだけ泣かせてくれる、あのやさしい手がないと、生きていけない。
(あったかい)
ぜんぜん違う手だけれど、こうしていれば、とりあえずほっとできた。ずっとこうしていてほしい。
なのに、縁は薫の気持ちなどおかまいなしにするりと手をすべらせてしまった。首の後ろを掴まれたと思ったら、かちりと音がして、犬歯の根元がじくじくした。反射的に目を瞑ってしまう。すると、またすぐ唇にやわらかいものがあてられた。
「ん……」
ちょっとだけくすぐったい。でも、とても心地よい感覚が薫の頭をいっぱいにした。温かいものは、今度は離れてしまわずに、ゆっくりと触れてくれた。人の指よりもずっとやわらかくて、やさしい感触だ。罪悪感でがんじがらめになっていた心が少しずつほどけていく。感嘆とも安堵ともつかない吐息が薫の唇からこぼれた。こんなに気持ちの良いことが世の中にあるなんて、薫は知らなかった。熱い吐息が唇に感じられて、ぱちりと目を開ける。ごく近くに、縁の黒い瞳があって、薫を射貫くように見ていた。心のいちばん底を直に見られているみたいだ。肌がぞくぞくするのに、ちっとも不快ではない。ふたたび与えられた口付けを、薫はごく従順に受け入れていた。
縁の唇は、意外といってはなんだけれど、低い声の印象と違って、とてもやわらかい。やわらかく形を変えて唇がくっつき合うと、くらくらするほど気持ちいい。
頬を支えるように縁の手が添えられると、手と唇の温かさで全身を包まれているようで、とても安心できた。口付けに意識が引き寄せられ、つらいことを考えずに済む。
(もっと、もっと……)
縁の手に自分の手を重ねて、身を乗り出しながら求める。息を吸おうと開いた唇の隙間に、熱い舌が差し込まれた。舌の裏側の根元をこすられると、頭の芯がじんとしびれる。想像したこともない刺激に体を支えていられなくなってしまう。ふらりと薫の上半身が揺れて、背中が壁についた。そういう薫にやっと気付いたのか、縁はいったん口付けをやめた。とたんに薫の瞳に涙が浮かぶ。すぐに薫を責める声が聞こえてくる。心をぎりぎりと締め上げる痛みが全身に広がる。それから逃れたくて、息を吸う音がふるえた。
「お前は、また…」
いかにも不機嫌そうに、縁がぼやいた。
「どうして泣くんだ」
「わかん、ない……」
「なら泣くな。泣くならもうやめる」
どうしてそんなひどいことを言うのだろうと、余計に涙が落ちる。難しい要求をする縁がうらめしい。
「……だって……こわくて……」
酸っぱいものを食べたみたいに眉をしかめた縁は、しばらく薫の目を見て、すっと立ち上がった。縁が立ち去ろうとしていると思った薫の瞳に涙が盛り上がる。ひとり取り残されてしまう恐怖が涙に変わり、ぽろぽろと落ちる。
だが縁は立ち上がっただけで、踵を返すことはしなかった。じっと薫を見下ろし、低い声でぼそぼそと言った。
「やりにくいんだよ。こんな状態だからな」
言いながら、いまいましげに吊っている左手を握ったり開いたりしている。意味を理解するまでしばらくかかって、薫もあわてて飛び跳ねるように立ち上がった。それからやっと、縁がひどい怪我をしているのを思い出していた。
「傷、痛まない?」
「は?」
おそるおそる尋ねてみると、縁はちょっと目を見開いてから、いきなり吹き出した。喉でくつくつと笑いながら、ぐっと薫に顔を近づける。
「そんなの見ればわかるだろ」
「あの、だいじょうぶなの……?」
「さあ、どうだろうな」
申し訳なさが込み上げてきて薫はしょんぼりと肩を落とした。怪我をしている縁のことをちっとも考えていなかった自分の図々しさが嫌だし、苦しみを一時でも忘れさせてくれる行為をしてもらえないのも辛かった。
「べつに痛みは感じない」
「……」
縁はさばさばと言ったが、薫はすんなり信じることができなかった。とにかく心が参っていて、判断力が鈍っている。
縁は怪我をしている。でもこの苦しさから逃れたい。そんなわがままは許されない。けれど一人ぽっちにしてほしくない。また涙があふれそうになって、唇を噛んでこらえる。複雑な感情をしまいこんでおけない薫の頬を、縁は右手の指の背で撫でた。
「またキスしてやろうか」
「きす?」
(どうしてお魚?)
きょとんとする薫に、縁はびっくりするくらいやさしく笑いかけた。体をかがめて、口付けてくれた。だがほんの一瞬で、すぐに離れてしまう。とても喉がかわいているのに、一滴だけしか水をもらえなかった。しんどさを訴えるように、すぐ近くにある縁の瞳を見上げる。笑っている目が、薫の望みをすべて見透かしているようで、背中がぞくりとした。
「あとはお前からキスしてほしいと言えたらだ。言い方は……まあ、この際なんでもいいってことにしてやるよ」
なんでもいい、なんていうのがいちばん困る。ただでさえ混乱している薫は、どうしていいかちっともわからなかった。
さあどうする? という風に、縁は薫の顔を覗き込んでいて、なにをすればいいのかの糸口もくれそうにない。
これほど楽しそうな縁は初めて見る。どうしてこんなに楽しそうなんだろう。
薫は、ほんとうに困ってしまった。謎かけなのだとしたら、うまく答えられそうにない。ただ罪悪感から逃れたいのだと、どうして正直に言えるだろう。魂を守ろうとする堰は薄く頼りなく、気を抜けばすぐに崩れてしまう。なのにずるくて卑怯な真似をするのは、間違っているように思える。どうしても心が真っ直ぐすぎるのだ。
縁の求めていることも、自分の本心もわからなくなってしまう。目が回るような混乱に頭がずきずきと痛む。
「…ってな……」
「おい、聞こえないぞ」
「きすって、なあに……?」
泣くなと言われた。それでも目の奥が熱くて、まばたきに涙が押し出されてしまう。それでも薫は正直に、心に浮かんだ通りに伝えるしかなかった。ほんとうにわからないのだから仕方ない。
「いやなの、ひとりに、なりたくないの……ひとりはいや、ひとりぽっちは、いや……」
誰かに助けてほしかった。深い罪悪感はひどく重くて、とても一人では抱えきれない。やさしく触れたり、抱きしめてもらわなければ、闇に呑み込まれてしまう。自分がさほど強くないことを、薫はよくわかっている。だからこそ誰かの助けが必要だった。さっきみたいに触れてほしい。痛みを忘れられるほど気持ちいいことをしてほしい。
切ない思いで見上げながら、縁の瞳の色を読もうとした。もう楽しそうではない。ただじっと薫の目を見ている。
(怒ってるのかな)
どうしよう、と思わず視線を落としてしまう。やっぱり間違ったことを言ってしまったのだ。
縁はひとつ大きな溜息をつくと、薫の左肩に額を乗せて、低い声でぼやいた。
「お前、どこまでずるいんだよ」
どことなく恨めしげな声音なのに内心首をかしげたが、すぐにものを考えられなくなってしまった。
縁の右手が頬に触れてくれている。温かい手で、また触れてくれた。今しがた抱いていた緊張がみるみるほどけていく。安心感に体が溶けてしまいそうだ。
「いいだろう、及第点にしてやる」
耳のすぐ近くで縁がささやく。頬に触れていた縁の指が動き、左耳の形をなぞるように撫でて、薫は思わず息を呑んだ。
「逃げたり抵抗したら許さない。もし少しでも俺の言うことが聞けなかったら部屋に閉じ込めてやる。ああ、この部屋にするか。いちばん上等な客間だしな」
死んだ自分が描かれた絵図が散らばっているのをとっさに思った薫は、思い切り首を振った。そういう反応を待っていたかのように、縁は口調をやわらげた。
「ひとりになるのは嫌なんだろう?」
縁の親指が下唇を軽く撫でている。触れるか触れないかのところで、切なさに唇が震えた。指が口の中に差し込まれる。舌を押さえられて苦しい。縁を仰ぎ見た薫は、真っ黒な瞳に、つい三日前に見た憎悪の色よりも力強い光が灯されているのを見た。
「頷け。頷けたらいくらでもキスもしてやるし立ち上がれなくまで抱いてやる。だがお前が頷かないならこの取引は無効だ」
「と、りひ、い……?」
「そう、取引だ。お前の意思一つで決まる。俺はどちらでも構わないがな。さあどうする?」
うなずいてしまえばいいと、生き残ろうとしている魂が薫をしきりに促している。
でも、縁の目が怖い。足元にある闇も怖い。取引とはどういうことだろう。薫は本能的な部分で、うかつに近寄ってはいけない気がしてならなかった。なのに、縁がちらつかせる甘い誘いに抗うだけの精神力はほとんど残っていない。一体どうしたらいいのだろう。
「……お前がどうしたいかって、わざわざ聞いてやってるんだぜ」
なかなか頷かない薫にしびれを切らしたのか、縁はあっさりと手を離した。全身が凍りついたように冷たくなる。いま置いていかれたら、縁は言った通りに、薫を閉じ込めて、そのまま放っておくだろう。
「まって、いかないで」
なりふり構わず縁の手を掴まえた薫は、しっかりとうなずいた。ちゃんと縁に伝わるように、何度も何度もうなずいた。
大きな手が、薫の頬に添えられた。上向かせられた薫の唇に、縁の唇が重ねられた。温かい感触に、足元がふわふわする。心地よさに薫が小さく喘いだ隙間から、熱い舌が差し込まれる。
「ん、んっ……」
舌を絡ませあったり、口の中を丹念に舐められるのに、薫は戸惑った。ただ抱きしめてもらうだけでよかったのに、こんなことをしてほしいわけじゃないのに。
「ちが、こうじゃ……」
「……口答えもするな」
下顎を強く掴まれて、口を開けさせられる。後ろに下がって縁の手から逃れようとしたが、すぐにまた背中が壁にぶつかった。見たくないものから逃げたせいで、逃げ場がなくなっていた。熱い大きな体と壁の間に挟まれて息苦しい。不器用に息をする薫の下顎を掴んだまま、縁は淡々と言った。
「腕を俺の首にかけて体を支えろ。こっちは不具同然で使い物にならない。今はな」
と、吊っている左腕を薫のみぞおちあたりに押しつける。その声に混ざっている怒気に、薫は鼓動が大きく跳ねるのを感じた。おそるおそる、言われたとおりに縁の首に両腕をまわす。縁の背がずいぶん高いせいで、爪先立ちに近い格好になってしまう。しっかりと縁にしがみついていないと、姿勢をくずしてしまいかねない。血管がどくどくと脈打っているのがわかる。体同士をくっつけあっていると、まるで抱きしめられているようだ。深い安堵と、ほんの少しの怖さが、薫の心臓をうるさくさせている。
素直に従った薫に、縁はすっと目を細めた。
「そうだ、良いと言うまでそうしてろ」
無防備な状態で縁の口付けを受ける。唇が触れあうだけではない、薫がまったく知らない行為が始まった。
唇をすりあわせ、熱い舌先でつつかれると、勝手に隙間が空いてしまう。すべりこんできた舌で上顎を撫でられると、背中がぞくぞくする。それだけでも刺激が強すぎるのに、縁の指がゆっくりと薫の輪郭をなぞるので、声がもれてしまう。
「んぅ、ん……」
うっかりすると、すぐに腕から力が抜けてしまう。なんとかしがみつき直した薫は、縁の目が笑っているのに気付いた。
「いいな、最高の気分だ」
薫の唇の端を舐め上げた縁が、低い声で囁く。
「誘われるのは興ざめだが、お前だとそそられるな」
しゃべり方のせいだろうか。声に鼓膜をくすぐられるみたいで、薫が求めているやさしい声とは全然ちがうのに、頭の芯がじんとする。そういう薫の反応を確かめているのか、縁の口付けは少しずつ激しくなっていく。
もつれあわせた舌を軽く噛まれると、肌がぞくぞくとあわだった。互いの舌が上になったり下になったり動くのが、口の中で生き物が動いているみたいだ。縁の右手が薫の髪をまさぐりながら、ぐっと強く掴まれ上向かせた。痛くはない。だが薫の自由にはさせてくれない。息がしづらくて新鮮な空気を求めて口を開けるとかぶせるように口付けられる。差し込まれた縁の舌からさらさらした唾液が流れ込んでくる。
「ん、くっ」
思わず飲み込んだら、こくんと喉が鳴った。恥ずかしさに体中の血が熱くなる。飲みきれず混ざり合った唾液が口の端からこぼれる。縁は丁寧に舌で舐め取りながら薫の口の中に戻した。
「帯をといて前を開けろ、早く」
これ以上ないほど目を見開いた自分が縁の瞳に映っている。やっと、『きす』というのがどういう行為かわかりはじめたばかりの薫は、足元をすくわれたような衝撃を受けた。
「なん、ど、うして……?」
「無駄な質問も禁止だ。早くしろ」
「だ、だって、それ、って、は、は」
はだかになれと言われているのと同じではないだろうか。とても最後まで言えなくて、頬がかあっと熱くなる。
何をいまさら、と呆れたように縁が溜息をついた。
「いいから待たせるなよ、頷いたのはお前だろ」
「っ……」
耳のくぼみや裏側に触れられながら、すぐそばで低い声にささやかれる。縁が冗談を言うはずない。
だからこれは、抱きしめてほしいとせがんだ薫への、逆らいようがない命令だ。
のろのろと縁の首に回していた腕をほどくと、言われたとおりに、柔らかい平帯の結び目に手を伸ばした。薫の一挙手一投足に、じっと縁の視線が注がれているのがわかる。帯の結び目をほどこうとして、なぜか指がもたついた。自分が短い呼吸を繰り返しているのがわかって、もっと恥ずかしくなる。
(わたし……どうして、こんな……)
気持ちが昂ぶって、もはや薫の意思が入り込む隙間もなくなっている。男の前にはじめて肌をさらそうとしている自分が信じられなかった。帯がどうしてもうまくほどけなくて、涙目で縁を見上げると、すぐに視線がぶつかった。真っ黒い瞳の真ん中が大きくなっている。
「……指が動かないのか」
「ちが、ちがうの、ちゃんと、できる、から」
声が勝手にふるえてしまう。置いていかれたくない。なのに手が動いてくれない。恥ずかしさと混乱で目が回りそうだ。
「じぶんで、できる、から……」
もたつく手を、縁が取り上げた。薫の手をまじまじと見てから、てのひらにそっと口付けてくれる。やさしい口付けを繰り返してくれる。次第に薫の呼吸は落ち着いていった。縁の息がてのひらにかかるとくすぐったい。唇同士で触れたり、手を合わせるのとも違う安心感が、体を包んでくれる。指の間からのぞく縁の目が、ふいに笑った。
「やっ……」
人差し指と中指の間を舐められ、お腹の真ん中がきゅうっとなる。あわてて手を引こうとしても、縁の力にはぜんぜんかなわなかった。それどころか、逆に引っぱられて、薫は縁の胸に顔を埋める格好になった。薫の頭の上でごそごそやっているかと思ったら、髪を結んでいた紐がぽとりと絨毯の敷かれた床に落ちた。
「まったく、片手じゃ何もかも不便だな」
薫のうなじのあたりの、いっそうやわらかい髪を指に巻き付けながら、縁はぼやいた。その声があまり尖ってはいないのに、薫はどうしてかほっとしていた。縁のにおいには、怪我の手当をした薬臭さが混ざっている。体の力を抜いて全身でもたれかかっても、かたい胸板はびくともしない。ついうっかり、縁が怪我をしているのも忘れて、頬をすり寄せる。
「―― れろ」
「あ、なに?」
規則正しい鼓動を触って確かめていた薫は、あわてて聞き返した。わざわざ聞かせるように溜息をつくのだから、嫌味なことこの上ない。
「いったん離れろ、と言ったんだ」
「あ……うん……」
くっついているだけで心地良いのに、それだけじゃだめなんだろうか。
(きっとだめ、なのよね)
薫がしょんぼりと落ち込んでいるのも構わず、縁は片手で平帯の結び目をほどこうとしている。しばらくして帯も床に落ちた。西洋浴衣の前衿から大きな手が差し込まれる。胸の横を触られて、薫の肩が大きく跳ねた。座り込みたいのを必死にこらえながら、なんとか縁の首に腕を回して体を支える。
「……やっと聞き分けが良くなってきたな」
熱い手に触られるだけで、どうしてこんなに体中が反応するんだろう。くすぐったいのにぞくぞくする。
「は、あっ……」
胸とあばらの間をゆっくりなぞられると、自分のものではないような、甘い声がもれた。大きな手が胸を持ち上げ、いいようにいじられているのがわかる。爪の先で胸の先っぽを引っ掻かれると、まるで知らない感覚が足先までぴりぴりさせる。肌を覆う刺激に、膝から力が抜けてしまう。縁の膝が脚の間に差し込まれて、肩を壁に押しつけられる。西洋浴衣の肩口を掴まれ、引きずり下ろされると、薫の肌は簡単にあらわになった。
「や、やっ……」
あわてて胸を隠した薫は、すぐに視線を感じて、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
縁はなにも言おうとしない。それどころか、頬を撫でてくれている。言葉よりも雄弁なその手つきに、薫はおそるおそる顔を上げた。笑っている。瞳に強い光が灯った、あの笑い方だ。体を縁の目から隠そうとしている薫を、あの笑い方をしながら眺めている。縁の瞳に射すくめられ、息苦しさに、心臓が喉まで迫り上がってきそうだ。
(……うなずいたのは、だれ……?)
こくりと喉を鳴らしてから、薫はゆっくりと胸を隠していた両腕を下ろした。
頬をすり寄せてくる薫は人懐こい子猫を思わせた。薫を見下ろしながら、小さな生き物が体を寄せてくる様子が思い浮かぶ。もっとも、縁は小動物に好かれたことはない。無防備に、すっかり安心しきっている様子で、縁は奇妙な感覚を抱かずにいられない。
(どうかしてやがる)
薫は大きな混乱の中にいて、殺してやった自分に救いを求めている矛盾すら理解できないでいる。地獄など似合わない娘が地獄の底にいて、縁が求めてやまなかった仕草や言葉で、胸の内を掻き回してくる。
(苛つくからお前をめちゃくちゃに犯してやろうとしているのにな)
そうやって掻き回されるのが心地良いなど、本当に自分はどうかしている。
子どものように下ろした髪から甘ったるい匂いがする。唯一動かせる右手の指に薫の髪を絡ませながら、深くその匂いを吸い込む。下腹が疼いてたまらなかった。
「ほどいてやるから一旦離れろ」
体を寄せたままの薫が、はっとして縁を見上げた。
「あ、なに?」
「一旦離れろ、と言ったんだ」
「あ……うん……」
少し離れろと言っただけだというのに、辛そうに瞳を曇らせる薫の反応がおかしくてたまらなかった。
薫はしおらしく縁のすることを見ている。バスローブの帯をどうしてもほどけなかった細い指を、噛み砕いて食べてしまいたいとすら思った自分に、全てを預けている。
(きっと美味いんだろうな)
やわらかい唇は少し甘かった。微かな死臭を纏っていた屍人形とはまるで違った。死臭を隠すために白梅香を使った苦い感傷まで思い起こさせる。
片手だけで帯の結び目をほどくのは案の定面倒だった。だが薫が出来なかったのだから仕方ない。
帯をほどくと、衿の合わせ目から白い肌がのぞく。小柄なわりに豊かなふくらみと、そこから続く腹のなめらかな曲線に目が吸い寄せられる。手を伸ばして胸のふくらみを撫でると、薫の肩がびくりと震えた。足元もおぼつかない。片腕では支えてやることもできないので、仕方なく抱き寄せてやろうとしたのに、薫からしがみついてきた。
最初に命じたとおり、体をぴったりとくっつけ、薫の体温が直接感じられる。鎖骨のあたりにかかる吐息が熱い。
「やっと聞き分けが良くなってきたな」
掌に乗せたたっぷりとした重みを楽しみながら、耳のすぐ側で囁いてやる。
もはや薫の傷ついた魂は縁の手の上にあった。握りつぶすのも、強風からかばってやるのも、縁の意思一つで決まる。あれほど真っ直ぐな眼差しをしていた薫を手に入れた喜びは、筆舌に尽くしがたい。薫へ向けていたはずの憎悪が、今はまったく逆の感情に変わっている。自分がこれほど単純な仕組みをしていたなど、どうやって気づけよう。
(俺のものだ)
薫の髪も、声も、血の一滴すらも自分が自由にできるのだと思うと、哄笑したいほど歓喜があふれてたまらない。愛しいという感情がこれほど鮮烈で瑞々しいなど想像したこともなかった。
縁の愛撫を受けて、ふくらみの頂が少しずつ固さを増していく。胸の形をなぞるように撫でてやれば薫の吐息は簡単に乱れた。愛おしげに指先で触れながら、時折爪を引っかけてやると、薫の口から甘い声がもれた。その声の甘さがより情欲を煽る。膝で薫の足を開かせながら、足の付け根の熱さを確かめる。肩からずり落ちそうなバスローブを掴むとためらいなく引きずり下ろした。
「や、やっ」
体を隠そうとする他愛ない小娘の抵抗を、縁はひどくやさしい眼差しで見守った。ささやかな恥じらいを可愛らしく思ったのだ。昼間の明るさでもわかるほど赤く染まっている頬を撫でてやる。こわごわと顔を上げる薫の仕草すら愛おしい。
(叱られるとでも思っているのか)
手伝ってやる必要すら感じなかった。肩を震わせている薫が、可哀想なほど抱擁を求めているのがよくわかる。どうすれば抱きしめてもらえるのか、必死に考えているのが手に取るようにわかる。縁は、与えてやると言った。深い罪の意識から逃れるためのにどうすればいいか、混乱の中にいる薫にもよくわかっているだろう。
さほど待たずに、薫は体を開いた。恥じらいのために小さな手を握りしめているが、自分から縁の目の前に体も心も晒したことに変わりはない。やや子供っぽさの残る大きな瞳と、女として扱って良い体のちぐはぐさが、不思議なほど縁を高揚させる。肋骨の窪みから平たい下腹に指をすべらせると、小さな体がぶるりと震えた。縁にしてみればただ触っただけなのに、薫には刺激が強すぎるらしい。両手が使えないのがつくづく腹立たしかった。
「……もう少し足を開け」
「ん……」
膝を脚の間に差し込んだだけではまだ触れづらい。薫は素直に小さく頷いた。
薄い和毛に隠されている帳に指を這わせると、薫は反射的に縁の手を抑えようとした。潤んだ瞳が怖さを訴えている。目蓋に口付けを落としてやる。一瞬ぽうっとなった薫は、また縋るように縁の首に抱きついてきた。
「物覚えがいい奴は嫌いじゃない」
笑いながら唇にも口付ける。ついばむように『きす』してやると、わかりやすく薫はもたれかかってきた。睫毛が触れあう口付けを繰り返し、薫が全てを自分に預けるように仕向ける。舌で唇を撫でてやりながら、口を開けるよう促した。
「ん、ふっ」
薫の擦れた声が劣情をますます煽る。口の中をただ犯すだけでは気が済まない。
指で帳の溝に触れると、薫がますます縁にしがみついてくる。まだ縁を受け入れらるほど準備が整っていない。指の腹で擦ると薫は簡単に反応した。
「あ、あ、んっ……」
「いやらしい声だな」
「っ……」
「恥ずかしがるなよ、もっと聞かせろ。そのほうが興奮する」
外側からこねるように指を動かすと、ぬるついた水音がしはじめる。耳まで赤く染まっている薫の額や目元に口付けを落としながら内側へ指を進めていく。指一本でも胎内は狭くて、異物を排除しようときつく締め上げてくる。薫本人は賢明に縁にしがみついているのに、随分な違いだ。胎内をまさぐり、薫がより反応をみせる場所を探す。指を半分ほど潜らせたところがもっとも反応がよかった。指の腹で押してやると、薫の呼吸も乱れていく。
「ふ、あぁっ」
初めて登り詰めた薫の甘ったるい匂いが濃くなった。脳髄が痺れるような甘い匂いに我慢が切れて、ぐっと腰を押しつける。自身をあてがいながら、薫の太腿を無遠慮に掴み持ち上げる。
突き上げられた薫が息を詰まらせるのが聞こえた。痛みのせいだろう、ぽろぽろと涙が落ちる。だが声を出すまいと唇を引き結んで耐えていた。不安定な姿勢になりながらも、薫は健気に自分を受け入れている。
「我慢するな、力を抜いてみろ」
首を振って、小さな声で言う。
「へい、き、だから」
「だから?」
「おいて、いかないで……」
歯を食いしばった縁は腰をより深く打ち付けた。薫の喘ぐ声、うっすらと上気した肌、甘ったるい匂い。もっと反応を見たくて、頭の中が焼き切れそうだ。
縁には自分の意思を制御できる絶対の自信があった。苦難や失敗はものの数に入らない。憎いあの男を地獄に落とすためだけに生きてきた。なのに、こんなちっぽけな娘に、溺れている。
「取引成立だな」
「う、ん、うん…!」
血が昂ぶるままに動き、薫の擦れた声を食べる。薫がいっそう強く縋り付いてきた瞬間、縁も激情を吐き出していた。
肩で息をしながら、掴んでいた薫の太腿を離してやる。薫の腕がするりとほどけて、小さな体が斜めに傾いだ。床に倒れる前に支えてやる。意識はまだあったが、精も根も尽き果てたようにぐったりしている。
壁に沿わせながら座らせてみたが、手を離すと、ずるずると床に寝そべりそうなので、大きく溜息をついた縁は、仕方なく薫の右側に座った。縁の肩にもたれかかった薫はまだ荒い息をついている。
縁はもう一度大きく溜息をついた。思い出したように、自分の上着をかけてやった。
「ありがとう……」
まだ明るい時分で蒸し暑さすらあったが、薫を裸のまま放っておくのはなぜか気が咎めた。
(おいていかないで、か)
深い罪悪感に狂う寸前だった女に、あくまでも興味本位で手を差し伸べてやった。それがどうだ。たった一度抱いただけの薫を、放っておくことができないでいる。
姉を助けてやれなかった悔恨は根深く、空虚さは消えたりなどしない。縁にとって姉は姉だけであり、代わりなど存在しない。薫はたしかに同じになったが、姉ではない。なのに、縁が渇望していた言葉を寄越してくる。
「ねえ、ほんとうに、どこにもいかない……?」
物思いを遮った声の方に顔を向ける。薫の言うことは子どもっぽいのに、ひどく真面目な顔つきで、縁を見つめている。縁は頷いてやった。
「ああ、いてやる」
「いつまで……どれ、くらい……?」
「さあな、どれくらいになるかは俺にもわからない」
あの男が渇いて餓えてくたばるか、それとも精神力が先に尽きるかは、縁にも予想がつかないことだった。どちらでもいいことだ。せいぜい苦しみ抜けばいい。あっさり死なれてはつまらない。
「できるだけ長いほうがいい。お前もそうだろ?」
「……ん……」
近くに落ちている絵図を一枚拾い上げると、手の中でくしゃりと潰す。我ながらよくよく気の遠くなるほどの手間を掛けたものだ。
「あまり待たされるのも困るがな。まあ、いいさ。お前も大人しく待って」
肩によりかかっていた重みが増した。すうすうと寝息が聞こえる。閉じた目の下には涙を流したとわかる痕がまだ残っていた。縁は大きく溜息をついてから、薫が半端に着ているせいで肩からずり落ちそうになっている自分の上着を直してやった。明らかに身頃も肩幅も余っていて不格好だったが仕方ない。それより薫が寝こけてしまったので、自分まで動けなくなったのに腹を立てていた。
(ガキじゃあるまいし)
喋っている途中で寝られたのも気に入らない。取引とは互いの同意があるから成立するものだ。薫が望むだけそばにいてやる腹づもりではあったが、きちんと確かめもしないで安心しきって眠っているのが気に入らない。
(まあいい。やるべきことは全て終わったからな)
とは思うのだが、ぼんやりする間もなく、すぐに先の予定を考えてしまうのは縁の癖になっていた。
(どこに連れていくかな。寧波の隠れ家を使うか)
といったことを考えていると、部屋の外に人の気配を感じ、縁は息を潜めた。念のためすぐ立ち上がれる姿勢を取ったが、こつこつと扉を叩く音が小さかったので、すぐに警戒を解いた。
『し、し、失礼します、ボス』
まだ少年の面差しを残した部下であるシャオがいやに顔を赤面させながら部屋の扉を開けた。
『呼んでないぞ、なんの用だ』
『あ、あの、ご報告があります』
眠っている薫を一瞥してから、縁は答えた。
『追い返せ。黒星だろうとこの邸には近づけるな』
『は、はい、もう追い返しました。ですが、港に運んだ荷の後始末に失敗したと』
なぜ床に目を向けて報告しているのかと思ったら、縁の上着しか羽織っていない薫を必死に見ないようにしているらしい。たしかに薫は脚が剥き出しで、あられもない格好をしている。
『無駄な報告は今後一切不要だと伝えろ』
舌打ちしながら、薫を揺り起こそうとして、シャオが慌てて言いつのった。
『お、お、お疲れのようですから、そちらの御方は、俺がお連れしましょうか』
そちらの御方とは、随分大げさな呼び方だ。だが名前も素性も知らない部下から見れば、薫はどう扱っていいか測りかねる存在だろう。起こしかけた手を止め、少し考えた縁は、天井を見上げた。
『俺の部屋に運べ』
『は、はい、ボス』
寝台のシーツをはがして器用に小さな体を覆うように巻き付けはじめる。背負って運ばれる間も薫は目覚めなかった。
そのまま薫は一昼夜眠り続けた。引き摺られるように縁も眠ったが、さすがに眠りが足りて、早朝に目が覚めた。縁の胸にもたれかかったまま、昏々と眠る薫を見ていると、どうしてか起こすのは憚られた。
(あんなに泣き喚いていてたくせに)
現金なものだとも思った。ただ寝転がっているのも退屈なので、起こさないように気を付けながら寝台に寝かせ直す。とたんに薫の寝息が苦しそうなものに変わった。瞑った目蓋が小刻みに震え、眠りながら泣き出しそうな気配だ。なめらかな頬が青白くなっていくのを目の当たりにした縁は、手早く数冊の本を掴むと、薫の側に戻った。また自分にもたせかけてやると、薫は静かな寝顔に戻った。初めて見る生き物のように薫をじっと見つめながら、肌掛けを直してやる。
(こいつ、一人にしたら死ぬんじゃないか)
あまりに極端な変化に、想像も突飛になる。
(まさかな)
赤ん坊ではあるまいし、一人になったくらいで人は死にはしない。
その認識を改めなければいけないなど、このときの縁は予想すらしていなかった。
昼近くになり、薫が目を覚ました。適当に選んだ本がつまらなくて退屈していた縁は、少しだけ嬉しくなった。
「……疲れたか?」
柄にもなくやさしい言い方になったのに、縁は内心うんざりした。薫との取引に特別親切にするなど含まれていない。現実から逃れたいだけの娘が、ただ縋ってきただけだと、よく理解している。
ぼんやりと縁を見返しながら薫はこくりと頷いた。明らかに疲労が抜けていない。手を伸ばした縁は親指で薫の唇に触れてみた。乾いてざらついた感触を返してくる。切ない思いが、縁の胸を通り抜けた。
(かわいそうに)
姉もこんな風に、傷つき、憔悴したのかと思うと、哀れでならない。なにもしてやれなかった。子供の自分が、一方的になじり責める言葉を吐いたことの深い後悔が、柄にもないやさしい言葉を言わせたのかもしれない。
「待ってろ、食うものを取ってくる」
薫の疲労は精神的なものからきているのは明らかだったが、ひとまず腹を満たせば動けるようになるだろう。寝台から下りようとした縁の右手を、薫が慌てて掴んだ。こういった反応をする予想は出来ていたから、あまり驚きはしない。それにしたって、なんて目をしているんだろう。
「すぐに戻るから大人しくしていろ」
怯えの色を湛えた大きな瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
「ここにいろ、すぐ戻る」
行きかけて、思い出したように薫を振り返ると、触れるだけのキスをする。ようやく呼吸ができたという風に、薫がゆっくりと息をついた。男女の口付けというより、簡単な手当を施したような気分になる。
台所ではシャオが忠実な番犬のように待っていた。消化のいい食事の用意は整っていて、手早く水菓子も切り分け、良い香りのするお茶を添えた食膳を整えると、指示もしないのに後ろからついてくる。
『お、お、おれ、誰も来ないように念入りに見張ります。絶対にボス達の邪魔はさせません』
縁の部屋で食事の準備をしながら、ちらちらと薫を見て、うっとりと呟いた。
『仙女さまみたいにうつくしい人がほんとうにいるんですね』
(美しい?)
あからさまに怪訝そうにする縁に、失言を何度も詫び、どたばたと出ていった。
二人きりになると、薫の全身を覆っていた緊張が抜け、安堵したのがわかった。髪も下ろしたままで、顔色もいいとはいえない。美しいというより、くたびれた印象が強かった。もっともこれは、縁にとっては美しいのは姉だけであるという、人とは基準が全く異なることに起因する。
気丈そうな瞳に気怠げな色を浮かべ、宙を見ている薫は、一種の妖艶さすら纏っていた。が、それが縁にはわからない。
向かい合って座り、とろみのついた玉子の羹をゆっくりと口に運び、薫の頬に血色が戻っていくのを見たとき、ほんの少しだけ理解できた。
「うまいか?」
つと顔を上げた薫は、素直に頷いた。
「うん、おいしい」
ふわりと笑った顔を、縁は自分でも気付かずにしばらく見つめていた。
「……おかあさんが作ってくれたたまごふわふわみたいでおいしい」
羹が気に入ったのか、さじで一口運ぶ度に、しあわせな記憶を見ているような表情になる。
「風邪をひいたらいつも作ってくれたの。熱が出るのは辛かったけど、あれだけはうれしかったなあ」
「腹に入ればなんだって同じだ。ガキの頃から食い意地がはってるのは変わらないんだな」
予想したとおり、食事を終える頃には薫は幾分顔色が良くなっていた。片付けようと薫が食器をまとめはじめる。このままにしてもいいものかと考えていたら、シャオがあわてふためきながら部屋に飛び込んできた。部屋の外で様子を窺っていたのだろう。
『や、や、やります、おれがやりますから!』
取り上げるようにがちゃがちゃと食器を重ねながら、やはり薫をちらちらと見ては、顔を真っ赤にしている。そこで薫は不可解な反応をした。縁の背中に隠れるようにし、息を潜めたのだ。部下の中でも比較的害をなす人間には見えないシャオを明らかに避けていた。
また二人きりになると、そろそろと出て行った扉を見て、小さく息をついている。
「ごめんね」
消え入りそうな声で謝る意味もわからない。
「お前、大陸語がわかるのか?」
涙で潤んだ瞳で縁を見上げた薫は、小さく首を振った。
「……なんか、怒ってる、みたいだったから」
ああそうか、と縁はすんなり納得できた。この島国に比べれば、確かに大陸の言葉は早口に聞こえる。縮こまっている薫には、何を言われても自分を責める言葉に聞こえてしまうのだろう。あれほど自分を責めていたのだ。原因を作った自分に縋るほど混乱している薫に、どう説明してやっても無駄だと思った。たとえ慰めたとしても、これほど傷ついている娘にはなにも届きはしない。
(かわいそうに)
これは、誰に対して抱いた気持ちだろう。縁は苦しい思いに突き動かされ、薫を抱きしめてやっていた。
歪な関係だと初めからわかっていた。
薫は自分を責めずにいられず、悪夢をみるので眠れなくなった。その度に縁は昼夜を問わず気を失うまで抱いてやる。体力が尽きた薫はやっと眠ることが出来る。その繰り返しだ。
それでも薫は弱っていく。食が細くなり、血色も悪くなっていった。根気よく食べさせてやり、常に清潔にしてやりながら、次第に片手での作業が手間になり、縁は自分の包帯を取り払ってしまった。
「まだ治りきってないのに」
湯船の中で、縁の傷を心配しながらそっと触れてくるので、痛みなどより昂揚感を煽られ、反応してしてしまうことも多かった。一応自省はするのだが、縋ってくる薫も悪いと思う。
(ミイラ取りがミイラになったかな)
と、思わないこともない。日がな一日薫と共に過ごしながら、交わり続けていると、いつの間にか縁のほうが行為に溺れていることも多くなっていった。あえかな吐息や甘ったるい匂いを全身で感じていると、余計なことを考えずに済んだからだ。姉に代わり復讐する為だけに生きていた日々が間遠になり、自分がいなければ死んでしまう弱い生き物の世話に注力していると、以前とは確実に違う日を過ごしたという実感がある。生かすという目的を、縁は己に対してさえ持っていなかった。姉と同じか、あるいはそれよりも弱い薫を生かすことは、単なる取引の枠を越え、縁にも変化をもたらした。
夜風が強く吹きつける夜に、縁の胸にもたれかかりながら眠っている薫が、またうなされていた。
すぐに気付き、背中を撫でてやる。だが今夜のうなされかたはいつもと違った。胸を押さえて、息も絶えだえに、うわごとを繰り返している。
「…け…し……んし……」
薫が繰り返しているのが憎悪する男の名だとわかった瞬間、縁は体中の血が沸騰するような怒りに囚われた。
「薫ッ!」
細い肩を掴んで引き起こすと、薫は弾かれたように目を開けた。まだ悪夢の続きを見ているのか、バスローブの胸元を引き絞るように握りしめ、短い呼吸を繰り返している。
「……まだ声が聞こえるのか」
恐怖に震える薫は僅かに頷くと、顔を覆い泣き出した。
自分を責める声が聞こえるのだと薫は言う。その度に縁は繰り返し言い聞かせた。
「違う、お前は悪くない」
薫の不幸を作り出したのは抜刀斎に他ならない。姉を殺し、多くの不幸を生み出した男は、相応の罰を逃れ、薫に安寧を見出した。その薫が、罪を背負っている男の死を招いたと自分を責めて涙を流している。
「ごめ、ん、ごめんなさい、ごめんね……」
「泣くな、お前は悪くないんだ」
頭を引き寄せ、胸の中に抱いてやると、薫は縁にしがみつきながら泣き続けた。細い肩がまだ震えているのが伝わってくる。
薫に泣かれるのが辛かった。姉が泣いてくれなかった代わりに薫が泣いているのだと思った。
「お前は悪くない。全部あいつが悪いんだ、お前はなにひとつ悪くない」
それだけではない。薫が抜刀斎を思って泣く度に、縁の憎悪は膨らんでいく。手ずから守ろうとしている薫の命を、あの男が死にかけながらも奪おうとしているのが許せない。抱きしめて繰り返し悪くないと言い聞かせても、薫は泣く。縁が食べさせればなんとか飲み込み生きようとしている小さな命が、眠る度に悪夢に追われるのは、全てあの男が薫を愛したからだ。人を愛する資格などない男が己を罪を忘れ、愛情をほしいままに奪ったせいで、この小さな娘が苦しんでいるのだと思うと、頭が焼き切れそうなほどの怒りが縁の中に生まれる。
「大丈夫だ、俺がお前を助けてやる。必ず救ってやる。誰の邪魔もない、静かな場所に行くんだ。空気もきれいで食い物もうまい場所を探してみせる。お前が元に戻れるまでずっとついていてやる。けして一人にはしない。わかるか、絶対にお前を一人になどしない。いつでも俺がいてやる。だから泣くな。泣くなよ、頼むから……」
悔しさに涙がぼろぼろ落ちるのを止められない。どうやったらこの脆弱な命を救えるのか、縁にもわからなかった。孤独に怯えなくていいのだと、どうすれば薫はわかってくれるのだろう。自分が傍にいるだけでは足りないのだろうか。
それが悔しくてたまらない。大切に水をやっているのに、なぜこの小さな体が枯れていくのを止められないのだろう。
視線を落とすと、薫がそっと笑いかけてくれた。無理をしているとわかる笑顔だったが、薫が笑ってくれるだけで、呆れるほど心が軽くなる。
キスするとなんともいえない不味さが口の中に広がる。涙というやつは至極不味い。
艶やかな髪の中に手を差し入れ、不味さが消えるまで口付ける。拙い舌の使い方を正すように、何度も口付けた。
次第に熱くなる血に我慢がきかず、薫を寝台に押し倒す。もう何度も見ているのに、薫はいつも手で襟元を押さえた。気まずそうな表情をしてから、前を開く縁の手を受け入れる。そういう恥じらいが愛おしかった。この小さな体に自分の与える快楽を刻まなければ気が済まなくなる。縁は掌全部を使って柔らかな体に触れた。
かぼそい声が聞こえる。どこから聞こえたのかはわからない。あわてて辺りを見回した薫は、すでに夜になっているのにやっと気が付くのだ。強い風が土埃を巻き上げる。目を伏せた薫は、ぎくりと体を固くした。足元が真っ白で何も見えない。足元だけではない、周囲は濃い霧のような煙が広がっていて、方角も分からなくなっていた。緊張から唾を飲み込むと、乾いた喉がひりりと痛んだ。また風が吹いた。体がふらつくほど強い風で、目に入る煙から顔を背けたとき、またあのかぼそい声が聞こえた。
(……だれ?)
擦れて、頼りない、泣いているようにも聞こえる声は、一体誰の声だろう。
けれど、初めて聞いた声ではない。あの声を薫はたしかに聞いたことがある。いつ、どこでかはわからないけれど、確かにあの声を知っている――
「どうした」
低い声が、浅い眠りから薫を引き起こした。真っ黒な瞳がすぐ近くにあって、心配そうに自分をのぞきこんでいる。
それが息が通い合うほど近かったので、薫はびっくりして返事をするのを忘れてしまった。
縁は動けないでいる薫に、わかりやすく表情を曇らせた。
「まだ寝ていろ、顔色がよくない」
明るくなり始めた朝日が窓から差し込んでいる。一筋の曇りもない明るい光がまぶしくて、薫はそっと目を細めた。まなじりに溜まっていた涙が押し出され、拭おうとすると、すぐに縁の手が伸びてきた。代わりに拭ってくれた大きな手に、余分な力が抜けていく。明け方前まで、この人に抱かれていたことを思い出した薫は、かっと頬が熱くなるのがわかった。
「また泣いていたな、かわいそうに」
お腹に響く低い声がやさしい。薫には不思議でならない。縁が、こんなにやさしい言い方ができるなど、どうして想像できただろう。殺せなかった自分を憎んでいるはずなのに。
「ちがうの、ただ、声が聞こえただけで」
「どんな」
「ん、と……」
思い出そうとして、背中がぞっと冷たくなる。
―― どうして逃げなかったの
(逃げるつもりだったわ)
―― ぜんぶ私のせいだわ
(わかってる、わかってるわ、わたしが悪いの、わたしが逃げなかったせいで)
―― 私のせいで剣心がいなくなってしまう
思わず耳を塞いだが、内側から聞こえてくる自分を責める声は、どこにいようと聞こえてきた。
死んだ自分を見てから、責め続けてくる声が、どうやっても消えてくれない。流れる血の赤さや命を失ったことがわかる濁った目が、瞼の裏に焼き付いて離れない。死んだ自分を見た剣心がどれほど悲しみ傷ついたかを思う度に責める声が大きくなっていく。
「ぜんぶ、わたしのせいだって……」
「誰が言ってる」
「だれが……? ……ううん、だれでもないわ、わたしの声だもの……」
「誰も何も言ってない、お前は俺と一緒に眠っていただろう」
「でも聞こえるの。わたしが悪いんだって……ずっと、ずっとわたしのせいだって……」
縁と交わした取引のおかげで、一時的に声から逃れることはできる。だが日が経つにつれ、薫を責める声はなにをしようと聞こえるようになった。その中には、あのかぼそい声がいつも混ざっていた。
(あれは、誰の声……?)
吹き飛ばされそうなほど風が強い、あの日の夜に、薫は死んだ。誰にも見送られることなく、ひとりぽっちで死ななければいけなかったのも、きっと罰なのだろう。闇はもう薫を覆うところまできていて、逃げる場所などどこにも無かった。
(たすけて、だれかたすけて、おねがい、剣心をたすけて……)
何度泣いても涙は涸れてくれない。いくら泣いても取り返しがつかないとわかっているのに、目の奥が痛いほど熱くなり涙があふれてくる。すぐに縁は抱きしめてくれた。もう知らないにおいではない、乾いたにおいのする胸にもたれて、声を上げて泣く。どれくらいそうしていただろう。ただ泣くだけでもとても疲れてしまう。何度かしゃくりあげながら顔を上げると、縁はそっときすしてくれた。泣き腫れたまぶたや、濡れそぼった頬に、慰めるように。そのやさしいきすが、ほんの少しだけ薫の魂を癒やしてくれる。責め苛む声を僅かにだが遠ざけてくれる。
その心地よさにひたっていたかったのに、縁は一通りきすを落とすと、薫を置いて部屋から出て行ってしまった。
あっさり置いていかれてしまったので、薫はぽかんとするしかなかった。
寒いはずないのに、手足の先から冷たくなっていく。急いで毛布を引き寄せたが、体が芯から凍えてしまったように、震えが止まらない。
(いや、ひとりにしないで)
意を決して追いかけようとしたが、床につけたはずなのに、雲を踏んでいるみたいに足元が頼りない。目が回って頭がふらふらする。自分の体がひどく弱っているのを認めないわけにはいかなかった。情けなさで、また涙があふれそうになる。それでも待っていることはできなかった。ひとりぽっちになるのは、怖い。
なんとか部屋の扉までたどり着き、廊下に出ると、階下からものすごい音が聞こえてきた。がたがたと乱暴に物を押しているかと思えば、木がみしみしと軋むいやな音がする。まるで物を壊しているようだ。そうっと階段の陰から下をのぞいてみると、肩に木板を担いだ縁が階段を上ってくるところだった。縁はすぐに薫に気付いた。
「まだ寝ていろと言っただろ」
「だって、すごい音がしたから……。なにしてたの?」
「いいから寝てろ」
担いできた荷をその場に置き、ひょいと抱え上げられた薫は、寝台の上に戻されてしまった。丸まった毛布を広げて薫に巻き付けてから、しばらく縁は出たり入ったりして、山ほどの木板を運んだ。最後に戻ってきたときには金槌と小箱を持っていて、あらためて部屋の中を見回している。窓の様子を確かめたかと思うと、木板を打ち付けはじめた。がんがんと力強く釘を打っていく。硝子の格子窓が、無骨な木の板で覆われていく。次々と板をはめていく姿が、意外と様になっているのが、なんだか不思議な光景だった。
見ているだけなのは落ち着かず、薫は寝かされたばかりの寝台から起き上がって、板を支えるのを手伝った。
「ああ、助かる。端の方は持たなくていい、手に気を付けろよ」
「んっと、こう?」
ぴったりと木板を打ち付けられ、すっかり覆われてしまった格子窓は窓としての役割を果たさなくなった。
どうしてこんなことをするのだろうと首をかしげていると、縁は次の窓にも板を打ち付けはじめた。結局、部屋にある窓全てが塞がれてしまった。あまり手伝えた気はしなかったが、薫は最後に打ち付けられた板から手を離すと、じっと縁を見上げた。
「雨風をしのぐのに必要だったからな。適当にやると後で面倒になるから全部自分で工夫してやるしかなかったんだ」
「……そう、そうなんだ」
縁が教えてくれたのは、薫が聞きたいことではなかったが、うなずきながら、別の悲しい思いが胸に込み上げてくる。
(子どもだったのに……このひとも……ひとりっぽっちで……)
「これでどんな音も聞こえないだろ。もし不足なら外からも塞ぐからすぐに言えよ」
「……?」
しばらく視線をさまよわせた薫は、やっと縁がなにをしていたのかがわかった。葉擦れや、ふいに強く吹きつけてくる風が窓を揺らす音が、打ち付けた木板に遮られほとんど聞こえなくなっている。厚い漆喰壁の邸の一部屋が、まるで大木の洞の中に作られた小鳥の巣のように、しんとしていて、やたらに暗い。それは縁も気になったらしく、薫と同じように視線を巡らせてからぼやいた。
「やれやれ、馬鹿みたいに暗くなったな。平気か?」
問われた意味がさっぱりわからなくて、薫は目をぱちぱちさせた。
「平気って、なにが?」
縁は一呼吸分ほど黙り込み、言葉を改めて聞き直してきた。
「お前、夜目はきくか?」
「うん。目はいいほうよ」
「そうか、なら問題ないな」
意味をはかりかねて首をかしげる薫に、縁は観察するように見た。
「お前が聞こえるという声はただの雑音でしかない。だから聞こえないようにした。だが足元が見えなきゃ不便だろう。で、平気か?」
かみ合わないやり取りを挟んで、やっと納得できた。それからどう答えたものかと困ってしまった。
静かな薄暗い部屋が居心地がいいかどうか、よくわからない。だが縁が用意してくれたのを嫌だと言うわけないはいかない。結局、うなずく以外になかった。
「ん……たぶん、だいじょうぶ」
「そうか」
縁は短く言うと、また薫を抱え上げた。寝台に下ろされた薫の隣に縁も寝転がる。肩まで毛布をかけてもらいながら、軽くあくびをしている縁をじっと見つめる。
「もう少し寝ろ。お前が起きたら食事にする」
「……いい、食べたくない」
「お前、自分が軽くなってるのがわからないのか。嫌がったってまた食わせるからな。それまで寝てろ」
やさしいのか厳しいのか判断に困る縁の言葉に、薫はぐっと奥歯を噛んで涙をこらえた。
なにを食べても味がしなかった。口の中にいれたものを飲み込むのも辛くて、どんどん食べられなくなっているのは自分でもわかっている。食べなければいけないのは自分でもわかっている。なのに、どうしても喉を通らないのだ。好き嫌いするをする子どもを叱るみたいに言われてしまうと、どうしたってむっとしてしまう。絶対に口を開けるものかと意地を張ってみたこともある。皮肉げに、ふうん、という顔をした縁に、強引に匙を突っ込まれたときは、喉に詰まりかけて、とても苦しかったのは記憶に新しい。それ以来、縁が言うとおりに食べるしかなくなった。だって、言うことを聞くとうなずいたのだから、従うしかない。
「……」
縁の胸に顔を寄せて涙を隠す。
この人は、自分を生かそうとしてくれている。
自分を責める声は相変わらず聞こえている。責めも、辛く苦しい思いも、全てを受け入れるしかないと思っていた。
なのに、まだ生きていたいと願っている魂の声を汲み取ったように、この人は自分を助けようとしてくれている。
(どうして……?)
薫の心は罪悪感で染まり、公平な判断力は失われ、深く考えることができない。取り巻く闇に飲み込まれてしまう恐怖から逃げるのに精一杯で、とても縁がしていることの意味など考える余裕はなかった。
浅い眠りを繰り返す薫にきついことも言うし、問答無用に抱かれ、力尽きてほとんど気を失うように眠りにつくことも多い。そうすることで、助けてもらっているのはわかる。それにしても、
(極端だなあ)
まさか窓を全部塞いでしまうなんて。
外の音はもう聞こえない。代わりに、縁の鼓動が聞こえた。
「……なにか言ったか?」
薫はまた浅い眠りについていた。体力を失い、その回復もままならない小さな体を懐に薫を抱き直し、子どものような寝息を縁はしばらく聞いていた。
数刻ほどして、浅い眠りから覚めた薫は、部屋が変に薄明るい気がして目をこすった。なんだか鼻もむずむずする。
「起きたか。少し待ってろ」
縁は身支度も整え終わっていて、寝台に腰掛けている。長い脚の片方を組んで、膝に手文庫を置いて机代わりにしていた。なにかを書き付けている。
書くと言っても、少しばかり筆を走らせた程度で事は足りたようだ。どうして窓が塞がれた部屋でもそれが見えたかというと、部屋のあちこちに洋燈が置いてあって、昼間ほどではないにしろ、行動するには問題ないくらいには明るかったからだ。屋敷中から集めてきたのか、袖机には三つも置いてある。ときおりかすかな煙がほわりと上がって、くしゃみが出かける。
やっぱり薫は思ってしまう。
(極端だなあ)
じっと見ている薫の目から隠すように紙を畳んだ縁は、予告していた通りにいっしょに食事を取った。縁は薫がきっちり食べ終わるまで根気よく、ひとさじずつ口に運んでくれた。丁寧に煮込んである粥の味はわからなかったが、温かさはかろうじてわかる。お腹が温まると少しだけ体も楽になるのがわかった。
だが立ち上がろうとすると、すぐに自身の声が自分を責めはじめる。どうやっても慣れそうにないその声に、薫は体を堅くして耐えるしかなかった。
そんな状態の薫を、縁はただ抱いていてくれる。長々と気の利いた台詞を言ったりなどしない。薫が自責の思いに耐えられなくなりそうなときは、ゆっくり髪や背中を撫でてくれる。それだけでよかった。疲れきった体を預けて、ただ抱いていてくれる人の体温を感じていれば、闇は近寄ってこない。恐怖がどうしても耐えられないときは、縁が薫に快楽を与えて一時忘れさせてくれる。とろとろとまどろみながら、薫は思うのだ。
(どうして、この人は、助けてくれるんだろう……)
小さなくしゃみをひとつして、薫は浅い眠りにつく。自分を責める声の中に、体に触れるくらい近くなった闇の傍に戻る。そこでは考え事などしていられない。体を縮め、聞こえる声に耐えるしかなかった。だって、悪いのは自分だ。なにもかも自分のせいで、みんなを悲しませた。
(ごめんね、みんな、ごめんなさい……)
その夜の夢は、風の音が聞こえないからか幾分静かだった。いつもはうるさいはずの自分の心臓の音もまったくしない。
でも、とても寒かった。骨に染みるほど空気が冷たくて薫はすっかり凍えてしまっている。なのに吐く息は白くはならない。手に息を吹きかけて温めようとして、体がちっとも動かないのに気付く。投げ出した手足が石みたいに重かった。重くて、とても動かせない。
かちゃり、ずるり。かちゃり、ずるり。
(なんの音だろう)
かすかに聞こえる音の出所を探そうとしても、顔を上げることもできなかった。目を開けているはずなのに、視界はひどく暗くて、ほとんどなにも見えない。残っているのは聴覚だけで、それもくぐもって聞こえづらい。
まったく動かない体や、奇妙な音のせいで意識が散らばり、集中できない。
「ほんとうにすまない……俺のせいで……」
その声を聞いた瞬間、薫は自分がどうなったかを思い出していた。
突き立てられた倭刀が心臓を貫き、流れ出たばかりの血の中に座り、顔はやや俯き、なにも映さない目をして、薫はあの夜の道場にいた。
よく知っているやさしい手が、倭刀を引き抜こうとしている。まるで気遣うように、そうっと、胸に刺さった凶刃を取り除こうとしていた。
(けんしん)
素手で刀身を掴んでいるので、少しずつ引き抜かれるたびに、剣心の手から血が垂れた。その血の上に、透明な雫がぽたぽたと落ちて、血を薄めている。薄まってはまた剣心の血が落ちる。叫べるものなら叫びたかった。剣心の手の傷が深くなるたびに、かすかに感じられる圧迫感が消えていく。
(おねがいやめて、もういいの、もういいから)
「すまない、薫」
(けんしん、けんしん)
倭刀が引き抜かれ、薫は解放された。前に傾きかけた薫を、傷ついた手が受けとめてくれる。
その血の生暖かさがはっきりと感じられたとき、薫は息もできないほどの暗い闇に落ちていった。
「薫ッ!」
びくんと体が震えて、肺が急いで空気を吸い込んだ。ひどく怖い色をたたえた真っ黒な瞳が近くにある。
短い呼吸を繰り返しながら、肩を支えている手の熱さを感じていた。ここはあの夜の道場ではない。知らない場所にある、よく知っている部屋だ。
「……まだ声が聞こえるのか」
(けんしん)
あまりの絶望に、上手く息ができなかった。すまないと繰り返す声が頭の奥で何度も響く。たんなる夢だ、夢だから、事実かどうかわからない。それでも、あの悲しい声と温かい血は、きっと、ほんとうのことだ。ずっと聞こえていたかぼそい声は、剣心の声だったのだ。
目がつぶれたように痛んで、涙がこぼれた。胸が重石を乗せられたように詰まって苦しい。どうして逃げなかったのだろう。あのやさしい人を、あんなにも深く傷付けてしまった後悔が、薫からあらゆる感情を奪い取っていく。残ったのは重すぎる罪悪感だけだった。
「違う、お前は悪くない」
「ごめ、ん、ごめん、ごめんね……」
「泣くな、お前は悪くないんだ。お前は悪くない。全部あいつが悪いんだ、お前はなにひとつ悪くない」
自分の愚行が招いた結果を目の当たりにし、薫はすでに正常な判断ができなくなっている。泣くために縋り付いている相手が誰だかもわかっていない。恋しい人を傷付けたことの後悔だけが少女を責め苛んでいる。苦しい息の下で薫は泣いた。
「……から泣くな。泣くなよ、頼むから」
(そう…泣く資格なんて無い……)
いつの間にかいっしょに泣いていた縁を見上げて、涙が落ち着くのを待った。助けようとしてくれている人が泣くなと言っている。うなずいたのだから、泣き止まなければ。ぎゅっと目を瞑り、無理矢理涙を押し流すと、薫は泣いている縁にがんばって笑いかけた。
(ごめんね、もうだいじょうぶだから、わたしはもう泣きやんだから)
泣いていた縁が、そっと笑うのがわかった。こんなにやさしく笑いかけてくれる人を悲しませるのは、やっぱり悪いことなのだと思えた。縁の手が西洋浴衣越しに左胸に置かれたとき、薫はとっさに、その下にある深い刺し傷を見せまいと襟元を押さえた。そうしながら、ふと気付くのだ。
(傷なんてないのに)
ほら、手で触れてみればわかる。ちゃんと心臓は動いているし、息だってしている。きすしてもらえば、唇の温かさだってわかる。舌が絡み合うと、気持ちよさに声がもれた。
(剣心はもっと傷ついたのに)
傷などないのに、どうして内側から食い破られるような痛みがあるのか、不思議でしかたない。無傷でいる自分の痛みなど、痛みのうちに入らない。
(だからわたしは痛くないはずなのに)
この痛みや苦しさは、きっと本物ではないのだ。そう思いながら、触れてきた縁の手に促され、薫は体を開いた。
緩やかに薫の体力は戻っていった。時間はかかったが自分で食べ、髪を梳り、いつもの通り頭の高いところで一つに結えるようになった。相変わらず眠りは浅かったが、目を閉じている時間が随分長くなった。窓を塞いでしまっているので、日中も薄暗い部屋には火が灯された洋燈がたくさんある。まめに火を見て回り、灯火用の油を補充している縁に、薫は尋ねてみた。
「めんどうじゃない?」
「別に。大した手間じゃない」
「そうだけど、まどを開ければ……」
くるりと振り返った縁は、しかめっ面に近い表情をしている。寝台に座っている薫につかつかと向かってくるのに、薫はちょっと身構えた。こういう表情をしているときは、かなりの割合で不機嫌にさせてしまった場合だ。隣に腰掛けた縁が、ごく自然に薫の頬に触れる。
「お前がまだ弱っているからこうしているんだ。……平気な振りは、するな」
そうかなあ、と薫は自分の手を見てみる。荒れてもいないし、傷一つ無い。
「そういえば、さいきん稽古してないなあ」
「出来る状態かどうかも判断できないうちはやめろ」
「でも体がなまっちゃうし」
「おい、返事は?」
「はぁーい、わかりましたー」
怒ってはいなかったのに、ほっとする。こうしてちょっと過剰なほど大切にされているのが、奇妙でくすぐったい。広い胸に深く抱かれた薫は、自分がそれに慣れつつあるのに気付く。乾いたにおいで胸がいっぱいになると、考え事をするのは難しくて、ぼうっとしてしまう。
(あったかいなあ)
心の中でさまざまに渦巻いているはずのものが、一生懸命手を伸ばさないと届かない場所で澱になっていく。
「いいのかな」
「何がだ」
「このままで、いいのかなって」
「いいに決まってる」
「どうして?」
「どうしてだって?」
ぐっと肩を押されて引き離されると、途端に怖さがよみがえってくる。不安そうな薫の表情をみた縁は、それみたことかと、意地悪く笑った。
「お前が頷いたんだ。だからこうしている。それとも一人に戻りたいのか? ああもちろん構わない、お前が望むならいつでも一人にしてやる」
立ち上がりかけた縁の手を、ほとんど反射的に掴んでいた。突き放すような言い方がえぐるように胸に刺さって、痛みで涙が出そうだ。ほんとうに泣いてしまっていたかもしれない。
「やだ、いかないで」
「どうしてだ?」
「どうして、って」
ひとりになるのは、耐えられない。
(おいていかないで)
大切な人を、みんなを苦しめた。戻れる場所はなくなってしまった。罪悪感はいつでも影の中に潜み、薫の心を喰おうと口を開けている。底の見えない場所に落ちてしまえば、きっと自分は自分でなくなってしまう。そして、ひとりぽっちはもっと怖い。魂が深い闇の中に墜ちるのを恐れ、必死にしがみつくものを探している。
「……いやなの、ひとりは、いや」
ぽろぽろ泣きながら抱擁を求めると、縁はすんなり懐に抱きしめてくれる。温かく乾いた胸の中で、薫はぐずぐず泣き続けた。
「そうだよな、お前が頷いたんだ。だから俺はお前を一人になどしない。こんなに泣いて、かわいそうにな」
額に口付けを落とし、薫の瞳をのぞきこんだ縁の目は、楽しげに揺れていた。
「死ぬまで一緒にいような。静かで季候のいいところで二人で暮らすんだ。お前がいればいい。薫さえいれば俺は幸せになれる」
(しあわせ?)
縁の口からはじめて聞いた言葉だ。思わず聞き返してしまった。
「それだけであなたはしあわせになれるの?」
「ああ。自分が幸せ者だと思い込んでいる馬鹿な奴らなんか比べ物にならない。お前がいれば俺は誰よりも幸せだ」
きつく抱きしめられ、少し息苦しい。
堅い胸板に頬をこすりつけながら、薫は想像してみた。静かな場所とは、いったいどんなところだろう。深い雑木林に囲まれたひなびたしもた屋が思い浮かぶ。縁側は南向きで、ひなたぼっこにちょうど良さそうだ。だがその家を見た縁はどこか不満げで、こんなのは違うとでも言いたげにしている。それがおかしくて、薫はちょっぴり笑ってしまった。
「なんで笑ってるんだ」
「ん、ちょっとね、変なこと思っちゃって」
「ふうん」
薫の想像した風景になど興味がなさそうに、縁が額にきすしてくれる。すぐに魂が安らいだ。考え事をしたいのに、意識をうまくひとまとめにできない。
(このひとが、しあわせになれる…?)
いちばん最初の痛みが薫の心に戻ってくる。深い悲しみを癒やせないでいる人なのに、なにもできないことが心苦しかった。出来ることはないのだと割り切ろうとしてもできなかった。取れない場所に刺さった棘のような痛みは、ずっと薫の中にあった。
(しあわせに……)
熱いてのひらが鎖骨から首に触れると、もう考えることはできなかった。
そのまま頬に触れてくれると思った手が通り過ぎてしまって切なくなる。それほど縁に触れてもらうのがあたりまえになっていた。大きな手に触れてほしい。もっときすしてほしい。けれどそういう気持ちをどうすればいいのか、薫はいまだにわからないでいる。ごそごそと動いていた手が髪をまとめている紐を取ってしまい、髪がほどけた。人差し指で摘まんだ髪紐を落とし、薫の顔に視線を戻した縁が、おかしそうに微笑した。
「なんて顔してるんだよ」
言われている意味がわからなくて、あわてて頬に手を当てる。その手を縁は易々と剥がしてしまった。間近にのぞきこまれて、頬が熱くなる。
「わたし、変な顔、してた?」
「いや」
黒い瞳には面白がるような色がある。それとは別に、揺らめくなにかがあって、薫を落ち着かない気持ちにさせた。触れられてもいない肌がぴりぴりとして、勝手に呼吸が早くなる。
「俺以外にそういう物欲しげな顔は見せるなよ」
「……?」
「キスをねだる顔をするなってことだ」
「っ…!」
全身が熱くなり、とっさに離れようとしたが簡単に押し倒されてしまう。けして敵わない力に両手を押さえられ、脚の間に膝を差し込まれ、西洋浴衣をしっかりと押さえられたせいで思うように身動きもできない。縁はそれほど体重をかけているわけではないのに、圧倒的な力の差があった。怖くはない。恥ずかしいのもちょっと違う。けれど逃げ出したいような焦燥感があった。そんな薫の困惑をよそに、唇がゆっくり重ねられる。合わせた唇からこぼれる吐息は、すぐに熱くなり混ざり合った。縁の唇のやわらかさを直に感じた瞬間、焦燥感はきれいに消えてしまう。余分な力が抜けて、きす以外のことを考えられなくなる。薫は不思議で仕方なかった。この感情の落差は一体なんなのだろう。その考えも縁がしてくれるきすにかき消されてしまって、心地よさに浸るのに夢中になってしまう。縁の唇が離れてしまうと泣きたくなった。もっときすしてほしい。
「だからそんな顔するなよ。抑えがきかなくなる」
縁がごちそうを前にしたみたいに舌なめずりしている。情欲をたぎらせた瞳が、半ばぼんやりしていた薫の背筋に悪寒にも似たしびれを走らせた。縁はいつも想像を一足飛びに越えた快楽を与えてくれる。下腹のあたりは熱を持ち、まるで待ち望んでいるみたいだ。
(わたし、すごく欲張りになってる)
かき消えそうな理性を集めて、薫は縁をまっすぐに見上げた。
「……変な顔なんて、してない」
「変だとは言ってないだろ」
「物欲しそうにだってしてない」
「いいや、してたさ。俺を煽るようにな」
「してないってば」
ようやく薫が真剣にものを言っているのがわかったのか、縁も真面目な表情に戻った。
「なんだよ、一体何が言いたいんだ」
「だから、ちゃんとわきまえなきゃいけないってわかってるから」
辛い思いから逃げたくて自分から縋った。縁が手を差し伸べてくれなければとっくに心が破けてしまっていただろう。従わなければひとりぽっちにされてしまう。きすしてもらえなくなる。
どうしても必要だった。取引を交わしたからだと理解しているのに、縁にきすをいつもしてもらいたくなっている。
けれど、自分の気持ちを押しつけたりしてはいけない。甘えすぎてはいけない。置いていかれるのは、こわい。
「もう変な顔も物欲しそうにもしない」
「……」
「だから、あの、あのね、えっと……」
(どうしよう、なんて言えばいいんだろう)
ほどほど? それはいやだ。かといって求めすぎてしつこいとも思われたくない。あれこれ迷っている薫の頬に大きな手が添えられた。体温が高い。交わるときの縁の体はいつも熱かった。
「つまりお前はキスしてほしいのか?」
薫はこくこくと一生懸命に頷いた。恥ずかしくはあったが、どうにか伝わったのにほっとしてもいた。
「わかった。ならルールを決めればいいんだな」
「るぅる?」
「規則とか決まり事って意味だ」
頭の横をがりがりとしながら、縁はちょっと不機嫌そうに言った。
「だから途中で中断させるのはやめろ。…嫌なのかと思っただろ」
「いやじゃない」
頬に添えられた大きな手に自分の手を重ねる。こうして触れてもらえるだけで安心できるのだ。
「ほんとはずっとこうしててほしいの、でも、それって、欲張りすぎかなって……」
縁は短い溜息をつくと覆いかぶさってきた。なんだかぐったりしているみたいだ。心配になって声をかけようとしたが、縁の体がものすごく重い。重いが、嫌な気分はちっともなかった。間近で感じられる乾いた匂いに胸がひとりでに高鳴る。薫はあわてた。これでは服越しでも鼓動が伝わってしまう。もう気付かれているかもしれない。抱きしめられるより体同士が触れあうところが多く、体が熱くなってるのまでわかってしまうだろう。落ち着いて呼吸をしようとするのだが縁の匂いまで吸い込んでしまって、気分が変に高揚するばかりだ。
縁が体を起こすと、とたんに寂しさが薫を泣かせようとする。離れてほしくない。ずっとくっついていてほしい。
いよいよ薫は困ってしまった。あまりにも正直すぎる欲をこんなにも抱いている。だけどこんな風に欲張ってほんとうにいいのだろうか?
頬にかかった髪を縁が指先で直してくれた瞬間、触れてもらえる期待に、痛いほど胸が脈打っている。髪だけではなく、もっと触れてほしい。体のどこでもいい。いいや、それよりもほしいものがある。縁に向かって両手を伸ばすと、
「きす、して」
勝手に口が言っていた。体が燃えてしまうんじゃないかと思うほど熱くなる。縁はほんの少しだけ眉頭を寄せてじっと目を向けてくれている。声がかすれてしまったから聞こえなかったのだろうか。けれどもう一度口にしようとすると、舌は石のように固まって動かなかった。どうしてこんな欲を口にしてしまったのだろう。恥ずかしさで気持ちがぺしゃんこにつぶれていく。頭上の縁がどんどんぼやけていく。涙はいつも薫を悩ませてきた。泣きたくないのに勝手にあふれてくる。これではわがままを聞き入れてもらえなかったのが辛くて泣いているみたいではないか。
さほど時間は経っていなかったが、薫には何十分も経ったように思えた。
薫の頬に手を添えて、縁がきすしてくれた。唇同士がそっと重なり合う。唇を擦り寄せるだけなのに、自分の中から生まれる声が聞こえなくなる。揺らぐことのない安堵感に全身が包まれているようだ。縁の首に腕を絡めれば、求めるだけきすしてもらえた。やさしくて温かい感覚にうっとりと目を閉じる。縁はときどき唇を離して、薫がちゃんと呼吸できるようにしてもくれた。だがそういう気遣いをされるたびに、薫は腕に力を込め直す。息ができなくても構わなかった。闇も、怖さも、辛さも無い安心感にずっと浸っていたい。
縁の手が直に脚に触れて、びっくりした薫は目を開けてしまった。真っ黒な瞳には情欲の炎が踊っている。息遣いも先程より荒い。なぜか縁も驚いたようで、ぐっと体を起こして薫の腕を剥がしてしまう。考える間もなく、薫の体は勝手に動いていた。半身を起こし夢中で縁に抱きつき直す。呆れたような笑い声がすぐ近くで聞こえても、薫は離れようとしなかった。だって、こうしていないと、また責める声が聞こえてくる。
「キスして欲しいときはそうやって言えばいい」
薫の右耳をゆっくりと撫でながら、縁は低い声で言った。
「ほら、もう一度言ってみろよ」
(もういちど?)
胸の中に二つの感情が生まれた。求めてもいいのだというほっとする気持ちと、ねだることをためらう気持ちが、せめぎ合って、混乱してしまう。気安くおつかい頼むのとは違う。こうしたいとわがままを口にするのとも違う。
他人に求めることの難しさが、いきなり分厚い壁になって現れた。
少しだけ体を離して縁を見上げてみる。なんだか楽しそうに見えるが、薫の気持ちをあまり軽くはしてくれなかった。この人がなにを考えているのかちっともわからないからだ。もう一回言えばきすしてもらえるかもしれないし、間違えればまた突き放されてしまうかもしれない。だがどちらが怖いかははっきりしていた。騒ぐ心臓をなだめながら、おそるおそる口にしてみる。
「もっと、きす、して」
満足そうに笑った縁は、また口付けてくれた。今度はただ触れるだけではない。唇を舌先でなぞられるとぞくぞくして力が抜けてしまう。熱い舌が口の中で絡み合ってるのがわかる。ただ触れあうのとは違う、抵抗しようのない快楽がすぐに薫を支配した。抱きつく力を失いかけた腕を、大きな手が掴んで引き寄せた。
(いたい)
痛みを訴えようとしたが、唇は塞がれていて言葉にならなかった。痛みはすぐに甘い感覚に置き換わる。縁の舌で口の中をなぞられるだけで目をつむっていてもちかちかする。息をしたくて少しあごを引こうとすると、縁の手で顔を上げさせれる。頷く代わりに、少しだけ目を開け、また目を閉じる。混ざりあった唾液を飲み込むとき、どうしても喉が鳴ってしまうのが、いつになっても恥ずかしい。やっと解放してくれた縁が、親指の腹で頬の高いところを撫でてくれる。
「それでいい。キスして欲しければいつでも言え」
「いつでも? ほんとうに?」
尋ねる声がいかにも物欲しげで、ああこれかと、遅まきながら理解する。きっと縁の言う物欲しげな顔をしているだろう。
「お前は本当にわかりやすいな」
「そう、かな」
「ああ。どこからどう見ても俺を必要としている」
まったくそのとおりだった。この人がいなければもっと悪い状態になっていたのは薫にもわかる。なのに、
(どうしてうれしそうなんだろう)
なにがそんなに縁を嬉しがらせているのか、薫にはさっぱりわからなかった。ほんの少し目を細めて口角が上がっている。縁のこういう笑い方は初めて見る。まだ生きていたいと浅ましく縋っている自分は面倒に思われても仕方ないのに、縁は鼻歌でもうたいそうな様子で、薫の肩にかかった髪を直している。
ぼんやりとされるがままの薫の腰が浮いた。あっと思う間もなく大きな手が背中を支え、寝台に横たえられる。西洋浴衣の隙間から熱い手が滑り込んできて、腿の内側をゆっくりと撫でた。大きな手に触れられ肌がぞくぞくする感覚はいつまで経っても消えない。脚の付け根に指が差し込まれると、声を抑えようと唇を引き結ぶ。縁の指が探るように動いてくち、くち、と粘ったものを混ぜる音がすると、いつも薫は恥ずかしさと期待で頭がいっぱいになってしまう。
(…ほんと、欲張りだなあ)
自分がこれほど欲深くずるい人間だったのを知っても尚、縁がくれる快楽を心待ちにもしている。もっと中をかき混ぜてほしくて心持ち腰を浮かせる。なのに縁はあっさりと手を引いてしまった。薄暗い視界に、縁が寝台から下りようとしているのが見える。心細さがまた薫を怯えさせた。どうしてやめてしまうのだろう。離れないでほしい、そばにいてほしい。
「わっ」
膝裏を掴まれたと思ったら、体が下に引っぱられていた。下半身がほとんど寝台から落ちそうだ。敷布に手をついて起き上がろうとした薫は、いきなり知らない感覚に意識を奪われた。枯れ枝みたいに肘が折れてしまって、起き上がれない。
「はあ、あっ」
自分のものとは思いたくない変な声が唇からもれ出たのに、とっさに両手で口をふさぐ。その僅かな動作をするので精一杯だった。お腹の下が溶けているんじゃないかと思った。長い指でいじられるのとは違う、柔らかいけれどひどく熱いものが敏感なところを擦っている。こんな熱さ知らない、こんな甘い感覚は知らない。
しっかり口をふさいでいたつもりなのに、その手は軽くどけられてしまう。薫の両手を片手でまとめて頭の上に置きながら、縁は少し厳しい声で言った。
「馬鹿だな、窒息したいのか」
短い呼吸を繰り返しながら、薫は自分が息を止めていたのにやっと気付いた。胸が焦げたみたいに苦しい。
応える余裕もない薫に、縁は口付けて息を吹き込んでくれた。荒く上下していた胸が落ち着き、息苦しさがやっと軽くなると、ふと妙なことが気にかかった。手を伸ばし縁の唇に指先で触れてみる。縁の固い体のここだけはやわらかくて、きすしてもらうと、とても安心できる。でも今はなぜか変に湿っていた。
「ああ、それでもいい、キスして欲しいときはそうしろ」
唇が触れあうと、しっとりとした感触がたしかに感じられる。どうして? と尋ねたかったが、きすの気持ちよさに頭がぽうっとしてしまって、考えをまとめるなんてできなかった。たくさんきすしてくれた縁がまた離れていくのを切なく見ていた薫は、熱い手が腿の内側を押し広げたのを感じ取った瞬間、膝を閉じようとしていた。だが脚を閉じられないように、縁が腕を差し込んでいて、訝しむような目とかち合った。
「今度は何だよ」
「なんだ、って」
いくら部屋が薄暗くても、日中のいまは縁の姿はしっかり見える。縁にも薫が見えているはずだ。
(うそ、うそ、うそ)
身をよじって下半身を寝台の上に戻そうとしたのに、腰を掴まれて身動きが取れないようにされてしまう。けれど薫も必死だった。こんな恥ずかしいこと耐えられない。
「い…」
出かけた言葉を無理矢理飲み込む。いやだなんて言ってはいけない。最初にそう取り決めたのを忘れないよう常に自分に言い聞かせてきた。でなければ、放り出されてしまう。
そうわかっていても羞恥心が涙に変わってしまう。早く泣きやまなければいけないのに、いくらぬぐっても涙があふれてくる。縁が薫の手首を掴んで有無を言わさぬ力で引き剥がした。とっさに顔を背けたが、きっと泣き顔を見られてしまった。突き放されてしまう。もう二度ときすしてもらえない。怖いと思うより先に、ひどい脱力感が薫を覆った。手も足も力を失い、体がだるい。
縁の手が頬に触れ、顔を上向かせる。
「さっき、何か言いかけただろ」
思いがけなく声がやさしかったので、薫はおそるおそる目を開けた。すぐ横で片膝を立てて座る縁が薫を見下ろしている。目に険はなく、むしろ窺うような色があった。
「……言っても、おこらない?」
「内容次第だな。どうしていきなり黙ったんだ。何で泣いてる」
淡々とした口調にはむしろごまかしや言い訳をさせない力がある。あくまでも理由を問い質そうという縁に、薫も正直に答えるしかなかった。逆らわないと取引したのだから。
「だって、はずかしくて」
「…………」
「あんな風に、見ないで、ほしくて」
「…………」
「いやなんて、言っちゃいけないって、わかってるの。でも、すごくはずかしくて。ごめんな…」
ごめんなさい。と続けたが涙声だったので、聞こえたかどうかわからない。
(もうきすしてもらえない)
恐ろしさが針のように胸を刺す。膝を抱くように体を丸めて、これから与えられるもっとひどい痛みを耐えようとした。出て行けと言われるのか、それとも置いていかれるのかわからなかったが、契約を破ったのだから、諦めるしかない。そう頭ではわかっていても怖くて涙があふれた。目をごしごしと擦っていると、手首を縁に掴まれる。
「わかったから泣くな」
と言われても、そう簡単に涙は止まってくれない。薫がいちばん自分を情けなく思うのは、心の状態がすぐ涙になってしまうときだった。幼い頃から変わらないこの癖が嫌でたまらない。大人になって少しは自制できるようになったが、心が弱るとすぐに泣けてしまう。今のように心がぼろぼろに傷付いているときは尚更だ。
「泣くなよ。それ以上泣くなら腹を立てなきゃいけなくなる」
はっと薫は顔を上げた。
「おこって、ないの?」
「とりあえずは、な」
珍しく歯切れが悪い。縁は薫の背中と膝の裏に手を入れると薫の体の位置を直した。きちんと頭を枕に置いてくれる。そうしてから僅かの間視線を明後日にやってから、薫の横に寝転がった。縁がなにを考えているかはあいかわらずわからない。でも怒っていないのは目を見ればわかった。吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳をじっと見ていると、ふいと視線を外されてしまう。とたんに胸が締めつけられて、薫は腕を伸ばして縁の首にしがみついていた。
「おいてかないで、どこにもいかないで、おねがいひとりにしないで」
ずるい行為だとわかっていても、必死に懇願した。ひとりぽっちになれば、ほんとうに魂を手放してしまう。
「どうしてそうなるんだよ」
溜め息混じりにつぶやいて、縁が頭を撫でてくれる。
「言っただろう、お前を一人にはしない」
たしかに縁はそう言ってくれた。それでも不安は消えてくれない。恥ずかしいのを我慢できなかった自分が悪いのだから、見捨てられても仕方ないと思っていた。
「こっちを見ろ」
言われたとおりに縁と目を合わせると、そっと唇が重ねられた。現金なもので、薫を泣かせる不安がきれいに消えていく。心の痛みがうそみたいに引いていく。唇同士を合わせるやさしい感触におぼれてしまう。こうやって抱きつけばきすしてもらえるのだと心に刻みつけていると、縁が低い声で言った。
「女は準備が出来てないと痛いんだろ」
「なんの準備?」
「……」
眉間にしわを寄せた縁が西洋浴衣の合間に手を差し込む。足の付け根に触れられ、長い指が内側に入ってくる。
「んっ」
とっさに手で口をふさいだ薫に、縁はやや厳しい目付きになる。
「声を抑えるのはやめろ」
頬が燃えたように熱くなる。それでも薫は素直に従おうとした。言うことを聞くとうなずいたのは自分だ。
恥ずかしいのをなんとか堪えてのろのろと手を外すと同時に縁の指が動き始める。
「ふ、うっ」
どうして縁に触れられると変な声が出てしまうのだろう。はしたないと思うのに、止めることができない。浅いところの裏側が指の腹でこすられているのがよくわかる。こすられるたびに体の奥が熱くなっていく。薫の前髪をかきあげて額同士を合わせながら、縁がささやいた。
「なあ、今何されてるか説明してみろよ。俺に何をされているか頭を使って言葉を選べ」
真っ黒な瞳の中にぼんやりとした目をした自分がいる。何度かまばたきしてから、試されているのに気付いた薫は懸命に考えた。
「い、いま、は」
ゆっくり指を動かす縁がうらめしい。こうやって集中力を削がれてはうまく言葉にできない。
「なかを、ゆびで、あっ、くるくるされ、てて」
奥に指が侵入してくるのを感じ取り呼吸が乱れる。意識が散っていかないよう縁の腕にしがみついた。
「あっ、おなかのうしろ、こす、られると、すご、くぞわぞわ、して、音、おとが……」
「止めるな、ちゃんと言えよ。どんな音がする?」
「くちゅくちゅ、って、い、いやらしくて」
自分の声も、息も、音も、全部がいやらしいのを縁に間近で聞かれている。そう自覚した途端に体の芯が強くしびれた。
ぐったりと頭を枕に乗せて息をつこうとしたが、稽古の後よりもずっと体が重い。首元を熱い舌が舐め上げられ、びくんと肩が動く。
「まあまあだな。ご褒美をやるよ」
縁がきすしてくれる。大きな手が頬を包むようにしてくれるのに、薫はどうしてか体がむずむずして仕方なかった。あたたかくて心地良い感触は安心させてくれるはずなのに、どこか物足りない。
(もっと、もっときすして、もっといっぱい)
舌を差し出して絡め合ってもしっくりこない。なにが足りないのかもわからなくて落ち着かない。無意識に脚をすり寄せていると、縁は気付いてくれたのか、薫の上になると下腹に下半身を押しつけてきた。骨とは違う堅いものがびっくりするほど熱い。こころなしか縁の息も荒くなっている。
「準備ってのはこういうことだ。女も痛いし男だって具合が悪い」
縁がいつも時間をかけてしていたことをようやく理解できた薫は、こくりとうなずいた。西洋浴衣の裾を分けられると、胸がはじけてしまいそうなほどどきどきする。早くお腹の奥の切なさを鎮めてほしい。なのに縁はいつものようにことを進めてくれない。不思議そうに見上げた薫は、あまりに意外なものを見て、大きな瞳を見開いた。
「あんなに嫌がるとは思わなかったんだ。…悪かった」
ばつが悪そうに困った顔をしている。
(わるいのはわたしなのに)
こんな表情をさせてしまっているのが申し訳ないのに、薫にはやはりどうしていいかわからなかった。縁がしてくれるように、そうっと頬に触れてみる。
「ごめんね、ごめんなさい」
正しかったのかわからないが、縁がふっと口元をゆるめたので、薫もほっとした。
「……これからお前を抱こうってときになんで謝りあってるんだろうな」
なにかを振り払うように軽く頭を振った縁は、もう表情を戻している。ぞくりとさせられる、男の人の顔。
いつものように与えられる快楽は薫から感情の一切を覆い隠してくれる。苦しいことも辛いことも、快楽が忘れさせてくれた。快い疲れは体の隅々まで行き渡り、気だるさが眠りを呼び寄せる中で、薫は守るように抱きしめてくれる縁の腕の中で思った。
(いやがらないって約束したもの)
契約と約束がごちゃまぜになっているのも気付かないほどうとうとしながら、薫は二度と嫌がったりしてはいけないと、眠りに落ち行く自分に強く言い聞かせた。けして忘れてはいけない。乾いたにおいに包まれ、落ちるように眠りにつきながら、忘れてはいけないと、薫は強く思った。
浅い眠りから意識が現実に押し戻されたとき、薫は違和感を覚え手を伸ばした。敷布に体温だけが残っている。
いつもすぐ隣にいてくれるのに。いつも抱きしめてくれるのに。込み上げてくる寂しさに、あわてて歯を食いしばる。縁だって所用で外すことがあるだろう。袖机の洋燈に火がついたままだから、すぐ戻ってくるつもりなのかもしれない。
(どうしちゃったんだろう)
それでも、必ず自分に声をかけてくれるはずだ。怖がったり、泣いたりしないように、縁はとても気を遣ってくれている。ときどきはいじわるなことを言うが、それでも必ずそばにいてくれた。
しばらくじっと待っていたが、縁は戻ってこなかった。敷布に残った体温が消えてしまうと、こらえきれずに寝台から起き出した。西洋浴衣を急いで着直し、裸足のままなのも構わずに部屋の外に出る。屋敷の中もすでに暗かった。窓が塞がれていない部屋に飛び込んで外を見ると、重たそうな雲が夜空を覆っている。その暗さのおかげで、薫は屋敷から離れたところに明るいものに気付けた。ひとすじの煙の根元になっているのは焚き火だった。誰が焚き火をしているのかもわからないのに、薫はもつれそうになる足を必死に動かし、手摺りにしがみつきながら階段を下り、玄関へ進む。走りたいのに思うように足が動かないのがもどかしい。
外の空気を浴びたのは久しぶりだった。涼しい空気が胸の中に入り込んでくる。焚き火のあった方角へ迷うことなく進む。手入れのされていない雑木林は、薫にあまり優しくしてくれなかった。素足で踏んだ石ころの角は痛いし、木の根っこはいたずらにつまづかせようとする。それでも二階から見えた場所をめざし、低木を懸命にかきわけて進んでいく。
(あ……!)
焚き火の明かりが見えてきた。炎を見つめる縁がそこにいる。
心からほっとして、呼びかけようとした薫は、その場で立ち止まった。
(泣いているの……?)
薫の声を封じたのは、縁の辛そうな横顔だった。どうしてあんなに辛そうな顔をしているのかまでは、考えられない。けれど薫が本来持つ、人を思うやさしい気持ちが、薫自身を動けなくしたのだ。
(あのひとも……泣いてる……)
呆然と立ち尽くした薫は、後にも先にも一歩も動けなくなってしまった。こんなことが、前にもあった。
縁を思うと、息がしづらくなるほど苦しくなって、自分の心がわからなかった。あの混乱が、また薫の胸をかき乱している。
いまは、ひとりでいるのが怖くてたまらなくて、縁を探しに来た。どうして一人がいやなのだろう。少し前まではひとりでもだいじょうぶだったはずだ。なのに、ひとりぽっちが嫌だからという理由だけで、泣いているひとに声をかけていいのかわからなくなってしまった。
―― そうだよな、ひとりじゃやりきれないよな
―― ひとりぽっちは嫌なんだろう?
―― だから俺はお前を一人になどしない
爪の先で引っ掻かれながら胸に刻まれた言葉がうずく。
一皮むけば薫はそこらの娘か、あるいは、それよりも弱いかもしれない。泣き虫で、甘えんぼうの、一人で過ごす夜の風に怯えるところがある、ただの娘だった。だから縁がなにげなく寄越した台詞が、いまさらのようにうずいて、弱った心が求めてしまう。
(だって……だって、ひとりぽっちにしないって、言ってくれた)
帰る場所は自分が壊してしまった。いま抱きしめてくれるのは、あのひとしかいない。
「……えにし!」
薫が呼ぶより僅かに早く、縁は薫がいる方を振り向いていた。炎の色が瞳に移っている。聞き取れない言葉でなにかしゃべってから、早足でこちらに向かってきた。薫がよろけた下草や低木に足を引っかけることもなく、真っ直ぐに自分のところへ来てくれる。
「どうして待っていないんだ、すぐ戻るつもりでい―― 」
縁が言い終わる前に、薫は全身でしがみついていた。少しの煙のにおいと、いつもの、かわいたにおい。
なにも言ってくれないのはひどいとか、どうしてひとりにしたのだとか、言いたいことはたくさんあったのに、胸がつまって言葉が出てこなかった。
「お前、なんで裸足なんだよ。よく転ばなかったな」
軽々と抱き上げられても、薫は縁にぎゅうっとしがみついたままだった。縁は、いままででいちばん深い溜息をつきながら、木々の間を抜け、屋敷に続く道に出た。重い雲のせいで足元も暗いはずなのに、足取りに迷いはない。しかめっ面に近い表情を間近で見ながら、薫は思った。
(怒ってるわけじゃない)
これが、縁があれこれ考え事をしているときの、地顔なのだろう。やや冷たい印象を与える真っ黒な瞳が、整った顔立ちに険しさを与えてしまうのだ。ようやく見分けがつくようになった。
(笑っているときは、あんなにやさしいのに)
そのまま風呂場に連れて行かれ、湯船の端に腰掛けさせられる。膝をついてしゃがんだ縁に、水を溜めた風呂桶の中でごしごしと足を洗われて、薫は笑い声を上げた。
「くすぐったい」
「我慢しろ。怪我していないか見てやっているんだ」
そう言われても、足の指の間まで洗われるのはくすぐったくて仕方なかった。つい片足を上げてしまって、西洋浴衣の裾が開いてしまう。白い太腿が露わになり、縁は一瞬手を止めた。だがすぐに裾を直してくれて、また足を洗い始める。しつこいくらい丹念に、傷がないかを確かめている。水を入れ替えたときに、ちょっとしたいたずら心がわいて、水を蹴ってみた。
「ばか、大人しくしてろ」
「おしえてくれたら、やめてあげる」
怪訝そうに顔を上げた縁を、薫はじっと見つめた。炎の色は、もう無い。
「なにを燃やしていたの?」
「……この世に不要なものだ」
「でも、あなた苦しそうな顔をしていたわ。とてもつらそうにしてた」
「五月蠅いな、だから何だっていうんだ」
「なんでもなくない。ただ、あんな顔はしないでほしいだけ」
どうしてだろう。縁が辛そうだと、胸がとても痛くて、痛いのに治す手立てはなくて、苦しくてたまらなくなる。
真っ黒な瞳をよく見るため、指先で縁の前髪をそっとかきわける。
「だって、つらいのは、かわいそうだわ」
我慢していたのに、涙がこぼれてしまう。縁が辛そうにしているのを見るのは、逃れることのできない罪悪感と同じくらい辛かった。
「どうしたら、あなたは、しあわせになれるの……?」
しあわせになれると言っていたのに、縁はちっともしあわせそうじゃなかった。焚き火に照らされた険しい表情を思い出すと、薫は胸がつぶれてしまうほど悲しかった。悲しくて、どうしても泣けてしまう。
「……方法が一つある」
ぽつりと呟いて、それきり黙ってしまう。足を丁寧に拭かれても、薫はくすぐったさに身をよじったりせず、じっと縁の言葉を待った。縁は水を替え、自分の手も洗い、薫が怪我をしてないかをもう一度確かめたり、なぜだか、わざと時間をかけている様子だった。顔を上げ、真っ黒な瞳を向けられる。笑いも、からかいも含まれていない。じっと見つめてくる瞳には、いじましさすらあった。
「あなた、じゃ、なくて……」
いつも少しの意地悪さを含んだ泰然とした口調で話す縁が、らしくなく声を詰まらせている。縁は薫の両手を取ると、自分の頬へ導いた。薫の手に自分の手を重ねた縁は、深く深く息を吐いた。その頬が少し熱っぽいので、心配になってくる。縁は、ゆっくりとまばたきをしてから、言った。
「名前を、呼んで、くれないか」
今度は薫がまばたきを繰り返した。
「名前を?」
「頼む。ただ呼んでくれるだけでいいんだ」
たったそれだけで、しあわせになれるのだろうか。よくわからない。けれど、縁の眼差しにはどこか不安そうな気配がある。薫は励ますようにうなずいてみせた。
「えにし」
「もう一度」
「えにし」
「もっとだ」
「えにし、えにし、えにし」
なんどか呼ぶうちに、だんだんとしっくりとくる。それに、縁がほっとした表情に変わっていくのに、薫もほっとした。
「縁」
「ずっとそう呼んでくれるか」
「ずっと、って、いつまで?」
「俺が爺さんになって、お前…薫が婆さんになるまでだ」
ずいぶん気の長い話だなあと、薫は少し考え込んだ。自分の年老いた姿を想像するのは、中々難しい。
薫は心に深い傷を負い、その痛みから逃れるため、聡明さを無意識に封じてしまっている。自分のしたことを考えてしまえば、いつでも自身から生まれた罪悪感が薫を断罪するだろう。少しの切っ掛けで心が壊れてしまうのを、堰を作って逃げ込むという薫らしくない選択肢で、なんとか自分を守っている。その堰のほとんどは、縁が作ってくれたものだった。その縁がしあわせになれると言っている。とすれば、薫が確かめたいのは一つしかなかった。
「そうすれば、縁はしあわせになれる?」
「なれる」
きっぱりと言い切るところはいつもの通りで、薫は思わず笑ってしまった。
「そっか、よかったあ」
両手は縁の頬を包んでいるので、代わりに、いつもしてくれるのと同じに、額にそっと口付けを落とす。こうしてもらうと温かくて気持ちよくて、とても安心できるのだ。縁にも安心してほしい。
「きゃっ」
いきなり腰を引っぱられて、湯船の端から滑り落ちそうになる。いつの間にか床であぐらをかいていた縁の上に、すっぽり座る形になった。あぶなく舌を噛むところだった。むっとした薫はすぐ抗議を口にしようとしたが、熾火よりも熱い体温を感じて、言葉が出てこなくなった。薫を抱こうとする前の縁はいつも体温が高くなる。
「これは取引じゃない、誓いだ」
「ちかい?」
「そうだ。俺は死ぬまでお前を一人にはしない。片端になろうが片目を失おうが必ずお前の傍にいる。お前を怯えさせるもの全てが俺の敵だ」
低い声がお腹に響く。熱い唇が首元の肌が薄いところに触れて、背筋がぞくぞくする。西洋浴衣を肩から脱がされそうになって、とっさに胸元を抑えてしまう。どこか不満そうにする縁の顔を見て、薫はやっと、胸に刺し貫かれた傷などないのを思い出す。何もないとわかっていても、傷があるような気がしてどうしても怖かった。
「だからお前も死ぬまで俺の傍を離れるな」
縁は何度も傍にいろと繰り返した。うなずかなければと思うのに、縁が降らせる口付けのせいで、体の自由がきかない。大きな手に持ち上げられた胸の頂を吸い上げられて、薫は背を仰け反らせた。胸を突き出す格好になってしまい、縁はいいように薫の胸乳を弄った。
「や、え、にし」
縁の真っ黒な瞳はいっそう熱を帯びて、薫の反応を一つも逃すまいと見ている。胸の間に唇を押し当て、舌を這わせ、指先で胸の輪郭をなぞられる。どれもが薫の快楽を引き出す刺激でもあったが、なぜか身体の奥をくすぐられる程度で、全てを引きだしてくれるものではない。涙ぐみながら縁の首にしがみつこうと手を伸ばす。だが縁は巧みに薫の気をそらせてしまう。二の腕の内側に触れるか触れないかのところで指をすべらせるので、薫は腕に力を込めることができない。かと思えば薫の小さな手を取り、てのひらに口付けられながら、感じる吐息の強弱で縁が笑っているのがわかる。
「やだ、ずる、い」
「誰がずるいんだ?」
「おねがい、きすして……」
縁から教わったとおりにねだれば、すぐに口付けてくれて、薫を安心させてくれるはずだった。なのに、縁は笑ったまま、胸の先を爪でかるく引っ掻いた。
「あっ、やぁ……」
引っ掻いたり、つままれたりすると、こらえきれずに吐息がもれる。お腹の下のほうがぞわぞわする。胸の頂を温かい口の中に含むと、歯先で噛むようにされ、肌が粟立つ。刺激が強すぎて、思わず縁から胸を隠そうとした薫の手首がまとめて掴まれる。前髪の間から見える真っ黒な瞳が、熱っぽく揺らいでいる。寝室の明るさとあまり変わらないはずなのに、全てを見られているように感じる。縁が、裸の肩や胸、早鐘のようになる心臓のあたりまで見透かすような目で、薫を見ている。早くなる呼吸が響いて聞こえる気がするのも恥ずかしくてたまらない。
「キスしてほしいときはどうするんだった?」
指で唇に触れたり、首に抱きついたりするよう教わった。いまは両手を取られていて、どちらもできない。だから言葉にしたのに、なにが間違っていたのだろう。くらくらする頭で一生懸命考えているのに、縁は空いている片手で、胸の間からみぞおち、お腹の下近くまで指をすべらせて、薫の集中力をわざと削いでいく。熱いてのひらで下腹を撫でられると、ぞくぞくして、つむった目から涙がこぼれた。
「ちがうの…? どう、して…?」
「さあ、な。なあ、ちゃんと考えてみろよ、教えてやった通りにやればいいだけだろ?」
「だ、って、んっ……」
首と肩の間を甘噛みされて、また意識がそちらへ向かってしまう。縁の吐息の熱さばかりに気を取られて、ちゃんと考えるなんてできそうにない。口付けを受けたくて唇が寂しい。大きな熱い手に触れられるのが嫌なわけじゃない。縁の手で引き出される快楽は、薫がまったく知らないもので、悦びと同時に、自分が自分でなくなってしまうような、わずかな怖さがあった。やさしく触れてくれるのに、どうしてだろうと薫は思う。快楽を全て受け入れてしまうのは、なぜか怖い。
「おねがい、えにし、きすして……」
真っ黒な瞳が、やさしく笑ったのがわかる。
待ちわびていた口付けを受けて、少しの怖さも溶けるように消えていく。
唇をわずかにあけて、縁の舌を受け入れながら、夢中になって縁の口付けを求め、貪り、与え合った。縁のにおいで薫の中はいっぱいになる。温かい舌に絡め取られ、舌同士を絡ませ、縁の唾液を飲み込んだ喉がこくりと鳴った。息継ぎをしようとあごを引いた薫の頬に、温かい手が添えられる。親指で目元を撫でながらこぼれた涙を拭ってくれる。欲しかった口付けと、気遣ってくれる手の動きに、薫はぽうっとなった。縁の首に腕を回し、体をすり寄せて甘える。間近にある黒い瞳は、とてもやさしい色をしている。この瞳が見つめてくれていれば、恐ろしい闇は近寄ってきたりしない。
「えにし、えにし……」
唇をすりあわせながら、縁が上着を脱いでいる。肌をぴったり合わせると縁の体温が直に感じられる。熱くて少し汗ばんでいる肌同士をくっつけあうと、深い安心感が薫を包み込んだ。薫の髪の中に手をもぐりこませ、背中の弱いところをまさぐられると、とたんに息が乱れた。快感が身体の奥底からわいてくる。
「もう少し、腰を上げろ」
耳のふちを撫でられながら囁く声の低さに肌がしびれたようになる。縁の吐息も少し乱れているのに、薫はなぜか胸がきゅうっとしめつけられる。痛くもないし苦しくもない、なにか、知らない感情が染みだしてくる。
言われたとおりに、床に膝をつけて、体を持ち上げると、縁の手が太ももの内側を撫でた。すでに潤んでいるところには触らず、太ももから足の付け根をゆっくり撫でる。こうやって焦らされるのは何度目だろう。
いちばん火照ったところをいじってほしいのに。縁だってすでに昂ぶっているのがわかるのに。さっきまでやさしい色だった瞳が、面白がるような色に変わっている。
「ねえ、おねがい……はや、く……」
「……どうされたいんだ? 俺にどうしてほしい?」
「ずるいわ、わかってる、くせに……」
触れてほしいと口にするのは、きすをねだるよりも、ずっとずっと恥ずかしい。声が喉に貼り付いてしまって、上手く言えない。うっすらと開いた唇に、縁の指がすべりこんでくる。
「ん、ふっ、んん……」
薫が苦しがる前に唾液で濡らした指を引き抜くと、縁は自分の指を口元に持っていった。薫の瞳を見ながら、やさしい口付けをする仕草に、たまらなく切ない気持ちになる。物欲しそうな薫の表情を充分に楽しんだのか、触れてほしいところに、やっと手を伸ばしてくれた。もじもじと腰を動かす薫に、わざと表層をなぞり、浅いところをかきまわされる。
思わず首に抱きつくと、縁は心得たように口付けてくれる。舌同士が口の中で生き物のように動いて、あふれそうになる唾液を啜られると、視界がちかちかした。
「なあ、どうしてほしいんだ」
囁かれる声に混じる吐息が熱い。触れあう肌は、縁のほうが熱を持っていた。胸をしめつけるあの感情がまた生まれるのがわかる。縁の真っ黒な瞳が揺れているのを間近で見つめながら、薫の口は勝手にしゃべりはじめていた。
「さわ、ってほしいの」
「それから?」
「それ、から……おくの……とこ……ぐちゃぐちゃに、して……」
あんまり恥ずかしくて声がふるえてしまう。顔が赤くなっているのがわかる。揺れる縁の瞳を見ていると、思っていることが勝手に言葉になってしまう。恥ずかしくてたまらないのに、どうしてこんなことを言ってしまうのだろう。
「お望みどおり、いくらでもしてやるよ」
「あ、あっ」
湿った硬い指がやっと中に入ってきてくれた。体中の血が音を立てて流れているようだった。はしたなく潤んだところを、指の腹でゆっくりと撫でられると、縁の指の形や動きがよくわかって、目眩がする。縁が指を曲げて中のひときわ敏感なところを押したとき、薫はもう体を支えることができなくなっていた。くたくたと力が抜けてしまう。
慰めるように縁が口付けてくれる。まなじり、まぶた、口元に温かい唇が触れてくれて、大きな熱い手が頬に添えられる。薫は小鳥の雛のように口付けを受けた。堰の陰に隠れているときとは比べ物にならない心地よさに溺れていた。
(きもちいい……)
温かい手が背中を撫でてくれている。ずっとこうしていたい。そうすれば、なにも考えないで済む。
それにしても、下腹の辺りがやけに熱い。ふいに縁が薫の手を取った。手に熱くて堅くて、ぬるついた感触がある。
縁の手が重ねられたままなので、薫はつい下を見てしまった。これまで縁が見せないようにしてくれていた、赤黒いものをまじまじと見つめてしまう。
「見るな、少し、手を借りるぞ」
縁のこんなに擦れた声を聞いたことがない。薫の下腹にくっつけながら、薫の手を使って、息を荒くしながらこすっている。力の入れ方がけっこう強かったので、薫はつい不安になった。
「いたくないの?」
「痛く、ないか、ら、じっとしててくれ」
「う、うん」
(みないで、じっとしてる)
健気に言われたことを繰り返したが、手元が気になって、混乱してしまう。縁の荒い吐息がすぐ近くにあって、薫まで息苦しくなる。手の中にある縁のものがびくびくと動くのもはっきりわかった。こんなに強くこすったらやっぱり痛いんじゃないかと、心配でつい見てしまう。下腹に押しつけられているものが、いつもどれくらい奥に入っているのかわかる。お腹が苦しくなる理由もよくわかった。縁が溜めていた息を大きく吐くと、どろどろしたものが薫の肌にもかかった。
「…見るなと言っただろう」
「あ、えっと、ご、ごめん、なさい……?」
怒っていると思い、慌てて手を離そうとしたのに、縁は手を離してくれない。まだ堅いままのものを握らされて、薫はおろおろと視線をさまよわせる。
「そんなに興味があったのか?」
「ちが、だ、だって、いきなりだった、から」
意地の悪い言い方をされて、頬が熱くなる。たしかに気になって仕方なかった。いつも中に入っているものが、こんな風になっているとぜんぜん知らなくて、それで見てしまったのかもしれない。でも、こんなこと、うなずけるはずがない。
「お前の手はいいな。柔らかくて、あったかくて、具合がいい」
真っ赤になりながら顔を背けると、縁は喉で笑いながら、やっと手を解放してくれる。そのまま腰を持ち上げられて、縁が内側に入ってくる。
「あぁ、あっ…!」
いきなり快感が走り、薫は甘い声を上げた。自分の体の重みで、奥のところをいつもより押し上げられて、うまく息が出来ない。でも、こうしてもらえるのを待っていた。体の奥をかきまぜて、なにも考えられなくしてほしかった。
「えにし、えにし」
口付けしてほしいのに、まるで聞こえなかったかのように、胸の先をいじられる。胸を持ち上げ、口に含むと、熱い舌の上でにいいように転がされて、異なる快楽を与えられた薫は吐息混じりの切ない声を上げた。前髪の隙間から見える目がわざとらしく笑っているのにも気付けない。体の奥を突かれるたびに、胸の先には痛いほど感覚が集まってくる。その感覚が快楽に変えられて、お腹の深いところに下りてくる。いっぺんに与えられた狂おしいほどの体の悦びは、薫には耐えることなどできなかった。お腹の奥がぞくぞくして甘い声がもれる。薫は華奢な体を震わせると、すっかり力が抜けてしまい縁にもたれかかった。肩で息をしていると、縁はそっと薫のあごを持ち上げ口付けてくれた。残っている体力では、ふいと顔を背けるしかできない。
「……さっき、きす、してくれなかった」
精一杯の不満を口にしたのに、やっぱり喉で笑いながら、縁は薫の頬に手を添えて自分を見るように直した。
「わかったわかった、悪かった」
「……」
「薫が満足するまでしてやる。嫌というほどしてやるから機嫌を直せ」
「ん……」
縁の軽い口調が、薫は不満だった。口付けてもらえると、ほっとするのだ。ふざけられるのはとても困る。それをちゃんとわかってほしい。
(……どうしてだっけ)
縁の肩に額を乗せ、縁のにおいを感じていると、考えることができなくなる。
頬に口付けてくれた縁が、低い声で言った。
「やっとわかった。お前が俺を幸せにしてくれる」
(しあわせ?)
触れあっている肌がまだ熱い。甘い余韻は薫から考えるだけの力を取り去ってしまう。縁の首にしがみついた薫の髪を、大きな手がやさしく撫でてくれる。誰かに体を預けていると、とても安心できた。苦しいことも、悲しいことも、ずっと遠くにいってしまう。
(しあわせに……)
縁がしあわせになれる。それは、薫にとっても、良いことに思えた。人は悲しい気持ちのままでは、生きていけない。
(しあわせに、なってほしい)
そう思ったとき、胸に空いた穴をなにかがするりと通り抜けて、生乾きだった傷がほんの少しだけ乾いていくような気がした。
穴の深さが充分なのを確認してから、縁は脇に抱えていた書物と紙束を無造作に放り込んだ。
積まれた薪の上に落とされた物の上から、シャオが洋燈用の油を念入りにかける。燐寸が投げ込まれるとすぐに書物と紙束に火がついた。火は下の薪にも落ち、僅かの間に大きく燃え上がった。屍人形を写し描いた紙が燃えていくのを、縁は表情を動かさずに眺めていた。
今更意味はないとわかっていたが、黴臭い感性の人形師が残していったものが忌々しかった。
薫が少しずつ弱っていく。
充分に食べて、身支度を調えることはできるが、日が経つほどに瞳から生気が失われていく。言動が徐々に幼くなっていくのに、肌は透き通るようで、花の盛り以上の危うい美しさを纏っていく。深く傷ついた故の防御反応なのだろう。人誅を下したことに後悔は無い。ただ、散々策を弄したのに、こんな下らない置き土産のせいで、自分を責めている薫が哀れだった。
(なんのためにここに連れてきたんだ)
姉と同じにしないためだ。少なくとも目の届く間は、同じ不仕合わせを与えるつもりはなかった。
現に屍人形の絵図を見るまでは、呆れるほど活発で、薫は自分の身の上に起きた不幸など知る由もなかったのだ。
(抜刀斎さえいなければ、姉さんもあいつも不幸にならなかった)
どれだけ愚かなことを繰り返そうというのだろう。人の身では到底贖いきれない罪を背負った男が憎くてたまらない。
炎の中で燃え尽きた絵図の束が墨色の紙片となって舞い上がり、暗い夜に呑まれていく。
周囲の枝葉は刈り取らせたから火事になる心配はない。炎を見つめながら、ようやく一時の眠りに落ちた薫を思う。
(あいつはどれくらい燃えるんだろう)
姉が息絶えたあと、自分の手で弔ってやれなかったことは苦い後悔として残り続けている。だがこうして立ち上る炎の中に姉の骸を置くのがどれほど苦痛をもたらすか、今更ながら理解できた。まだ自分が生きたまま焼かれるほうが痛みは少ないはずだ。知らず知らずの内に、縁の表情が歪む。
自分がもし、万が一にも、薫を生かしきれなかったときは、己の手で火をつけるしかない。薫の骨の一欠片さえ誰にも渡したくなかった。炎の中で小さな体が燃える音が聞こえた気がして、縁は狂いそうになる感覚を抑えるために奥歯を噛んだ。
(死なせるものか)
どんな手段を使ってでも薫は死なせない。あの男だけが孤独に地獄へ落ちればいい。
と、慣れ親しんだ気配を感じ、縁は雑木林の中に目を向けた。
「えにし!」
自分を追いかけてきた薫を見て、縁は束の間呼吸を忘れた。髪も下ろしたままで、こんな暗い中をたった一人で探しに来た薫が、泣きそうな声で自分を呼んでいるのを、縁は信じられない思いで見つめた。
『全て燃え尽きるまで火を絶やすな。それからこの隠れ家に危険がないか調べろ、周辺も含めてだ』
用意しておいた書き付けを渡すと、シャオは両手でしっかりと握りしめた。
『後始末を頼む』
『は、はいっ、ボス』
大事な命令を下されたと、シャオは、あたふたと頭を下げた。が、もう縁の目には薫しか見えていない。
駆け寄ってみると、髪やバスローブに葉や木っ端がついているのがわかった。それを取り払いながら、縁は少し厳しい口調になった。
「どうして待っていないんだ、すぐ戻るつもりでい……」
薫が全身で抱きついてきた。何も言わず、泣きもせず、ただ自分に縋ってくる。
甘ったるい匂いが鼻腔に広がる。嗅ぎ慣れた薫の匂いだった。体が少し震えている。やっと眠ったところだったから、何も告げずに抜け出してきてしまった。自分がいなくてさぞかし驚いただろう。怖い思いをさせてしまった。
「お前、なんで裸足なんだよ。よく転ばなかったな」
重い溜息をつきながら、口調をやわらげ抱き上げてやる。軽い体だった。今しがた燃やした絵図を目にしてから、薫は少しずつ軽くなっていく。深く傷ついていた。その傷を思うように癒してやれないことが苛立たしい。
(どうすればいい、どうすればお前を助けてやれる)
邸に戻りながら縁は考えた。すぐにでもここを離れ連れ出そうか。だが連絡船が来るのは数日先で、個人的に用意してある隠れ家の安全もまだ確認できていない。精神安定剤を食事に混ぜる手もあったが、弱った体には負担になるだろう。薫が余計な音を聞かないよう、体と手で耳を塞いでやりながら、縁は考え続けた。
ひとまず土で汚れた薫の足を洗ってやることにした。風呂場まで連れて行き、小さな爪の中にまで入り込んでいる土を丁寧に洗い流す。
「くすぐったい」
薫は少しもじっとしていない。まるで子供のようだ。
「我慢しろ。怪我していないか見てやってるんだ」
どこをどう歩いてきたのか、かなり土で汚れている。幸い傷はなかったが、木の根でも踏んだのか、土踏まずに赤い痕が残っているのに、縁は顔をしかめた。痛かっただろうに。暗くてまともに足元も見えない真夜中に、しかも裸足で外に出るほど薫が判断力を失っているのを実感する。今はすっかり安心した様子で桶に溜めた水を蹴り上げたりしているが、不安でたまらなかったに違いない。
「ばか、大人しくしてろ」
かわいそうなことをしたと、はだけたバスローブの裾を直してやりながら、縁は後悔に奥歯を噛んだ。
「教えてくれたら、やめてあげる」
顔を上げた縁は、こめかみがすっと冷たくなるのを感じた。大きな黒い瞳に、薫を初めて真正面から見たときと同じ、強い光が宿っている。易々と定められた運命を受け入れたりしない、一等星のような明るさ。その明るさが忌々しくてたまらなかったのもよく覚えている。
「なにを燃やしていたの?」
淡々と問いかけてくる薫に、縁は首を振った。屍人形の絵図を燃やしたことをわざわざ知らせる必要はない。
「……この世に不要なものだ」
「でも、あなた苦しそうな顔をしていたわ。とてもつらそうにしてた」
「五月蠅いな、だから何だっていうんだ」
自分の手で薫の体を炎の中に置く想像が、抉られるような痛みを伴っていたなどと教える必要は無い。
「なんでもなくない。ただ、あんな顔はしないでほしいだけ。だって、つらいのは、かわいそうだわ」
はっきりとした口調で、薫は言った。涙が盛り上がって、薫の頬を濡らした。ぽろぽろと涙をこぼしながら、それでも真っ直ぐに自分を見る薫の瞳から、目が離せない。
「どうしたら、あなたは、しあわせになれるの……?」
縁にとってはひどく遠い言葉だった。そして少しだけ驚いてもいた。あんな戯れの言葉を真に受けて、弱っているくせに、ずっと考えていたのだろうか。
(…ばかなやつだな)
薫を生かしたいという思いが、姉を救えなかった後悔に起因しているのは、自分自身がいちばんよくわかっている。縋ってくる薫を受け入れてやったのは、姉と同じにしたことを、少なからず負い目に感じるようになったからだろう。だが姉の代わりではない。姉の代わりなどいない。それでも薫を傍に置いているのは、縁が欲しくてたまらなかった言葉を、態度を、仕草を寄越してくるからだ。
(どうしてお前にはわかるんだろうな)
意識下で欲しているものを、薫はあっさりと差し出してくれる。その度に縁は失ったものが埋まっていくのを感じる。
姉が弱かったことも、受け入れられた。笑ってくれない姉への僅かな反感も薫が消してくれた。姉を助けてやれなかったことは今でも苦しい。だが、受け入れるしかないのだ。幼かった自分がしてやれることはなかった。姉もまた幼い自分を思いやったからこそ、手を取ってくれなかったのだと理解できる。
だとしても、姉を助けてやれなかったことが悔しくてならない。荒んだ気持ちは手に余った。
「……方法が一つある」
ほとんど独り言だったが、薫はまだ真っ直ぐに自分を見つめ、次の言葉を健気に待っている。
(馬鹿か、俺は。弱っているだけのこいつに望んだところでどうなる)
薫が自分に縋るように巧みに仕向けておきながら、自分の望みはあまりに女々しく思えた。
二の句が繋げずに、縁が手元を忙しくさせていても、薫は辛抱強く、真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
「あなた、じゃ、なくて……」
声が詰まる。自分が存外に臆病だったことに内心落胆する。情けない。手助けが欲しくて、薫の両手を取ると、自分の頬にあてる。小さいくせに、なんて温かい手だろう。重ねてみれば、自分の手の方がずっと大きいのがわかる。けれどこの小さな手が、縁には何よりも必要だった。
「名前を、呼んで、くれないか」
頬が打ったばかりの鉄のように熱くなる。親愛の情を込めた声で自分を呼んでくれる姉はもういない。胸の中にいる姉の魂は、けして縁に声をかけてくれない。けれど、もし、薫がもう一度自分の名を呼んでくれたら。
「名前を?」
「頼む、ただ呼んでくれるだけでいいんだ」
(お前の声で聞きたい)
喉が腫れ塞がったようになって、嘆願はそれ以上言葉にならなかった。早鐘のような心臓が煩わしい。薫は柔らかく笑うと、ゆっくりと唇を動かした。
「えにし」
優しい声が鼓膜を響く。ただ名前を呼んでもらっただけなのに、胸にわだかまっていた恨み、憎悪、後悔といった、生きる力であり、常に重荷だった思いが、驚くほど軽くなる。
「もう一度」
「えにし」
「もっとだ」
「えにし、えにし、えにし、縁……」
姉が自分を呼ぶときの温かな声も思い出せた。ずっと忘れていた。いいや違う、忘れようとしていた。思い出せば、寂しくて、泣きたくなってしまうから。
「ずっとそう呼んでくれるか」
「ずっと、って、いつまで?」
ごく真面目に薫は尋ねてくる。乾いた口の中を湿らせながら、縁も真面目に答えた。
「俺が爺さんになって、お前…薫が婆さんになるまでだ」
薫はその意味がわかっているのかいないのか、少し首を傾げた。足りない言葉の隙間を考えているように見えた。
「そうすれば、縁はしあわせになれる?」
「なれる」
はっきりと言い切った自分の声が、普段と同じに戻っているのに、柄にもなく安堵する。
「そっか、よかったあ」
朝顔が花開くような笑顔だった。この笑顔が見られるなら、伝わらなくても良かった。自分を案じ、自分のしあわせを望んでくれる存在がいるだけで、荒れていた気持ちが、笑い飛ばしたくなるほど取るに足らないものに思える。
ほほえんだまま、薫が額に口付けてくれた。唇が温かい。どうして薫はこんなに温かいのだろう。
「きゃっ」
細い腰を引き寄せて、小さな体を胸に抱きしめる。目の奥が熱を持ち、鼻がツンと痛む。一筋の涙をこっそり拭いながら、きつく抱きしめた小さな体の体温を全身で感じ取ろうとした。
「これは取引じゃない、誓いだ」
「ちかい?」
「そうだ。俺は死ぬまでお前を一人にはしない。片端になろうが片目を失おうが必ずお前の傍にいる。お前を怯えさせるもの全てが俺の敵だ」
(お前が欲しい)
薫を手に入れたいと、縁は心の底から思った。傷ついた薫を、どれだけ時間がかかろうが、必ず自分が癒してみせる。
弱っている薫に無理はさせられないので、いつも、欲望をかなり抑えながら、眠れるように抱いていた。その枷がいまにも外れようとしている。思うままに犯して、自分のことしか考えられなくしてやりたい。
かなり無理をしながら我欲を抑え、抱きしめた薫の耳元で囁く。
「やっとわかった。お前が俺を幸せにしてくれる」
失ったものが、今は腕の中にあることが、すんなり理解できた。二度と手に入らないはずの幸せが、これほど近くにある。歪んだ形で出会った薫が、自分を幸せにしてくれるなど、想像も出来なかった。
長い黒髪を指で一房持ち上げる。甘く、いい匂いを吸い込みながら、縁は己が辿ってきた長い道の行き着いた先にあった薫のことを考え続けた。
寝台に下ろそうとすると、薫はぎゅっと縁の肩にしがみついた。口の端を動かして笑った縁は、低い声で言い聞かせた。
「心配するな、もうどこにもいかない。あとはお前を寝かせるだけだ」
それでも不安そうな瞳で見上げてくるので、縁はやっと気付いた。薫を横たえてから、前髪をかきあげ、額に口付けてやる。
薫がほっとしたように力を抜いたのがわかった。体中のあちこちに口付けしてきたが、どうやら薫は額にキスをされるのが好きらしいと、縁はようやくわかってきた。こんな程度で、と思わないことはない。男女のありかたとしてやや子供っぽいなと、物足りなくなるときがある。特に中途半端に抱いた今夜などは、若い縁はひどく血が騒いで、眠れなくなる。袖机の洋燈一つ以外を消していく縁を黒い瞳が追いかけて、隣に寝てくれるのを待っている。自分だけを見つめる真摯な眼差しが、どれだけ血を騒がせているのか、今の薫にはわからないだろう。
(まあ、いいか)
重い溜息をつきながら縁も横になる。足を洗ってやるときに上着を置いてきてしまったが、取りに行くのも億劫だった。
薫は縁にぴったり寄り添い、胸元に額をつけている。こうしていないと不安でたまらないのだろう。そういう薫を見ていると、縁は満たされた気分になる。だが今夜は、やたらに薫の体温が気になった。深く熱い息を吐いて、気分を静めようとする。
薫の眠りは大抵が浅く、仮に深く眠れたとしても、いつも悪夢に苦しんでいる。いっそう静かな寝室にあっても、寝返りを打つだけでまた別の悪夢を見るようだった。眠りが足りないせいで弱っていくのがわかっているのに、どうにもしてやれないのが歯がゆかった。薫が見る悪夢の中までは入れない。こうして抱いていてやるのがせいぜいで、傷を乾かしてやることもできない。
また熱っぽい溜息をついた縁の鎖骨に、細い指がつうっと触れた。意識外のことで、かなり驚かされた。薄暗い中でも、薫の黒い瞳は自分を見つめている。だが何を考えているのかがなぜか読みにくい。
「……ため息ついてる。まだつらい?」
「そうじゃない」
言いながら、また溜息をついてしまって、縁はげんなりした。こうして情けない溜息を繰り返すから、薫が余計なことを言い出すのだ。
「なんでもないんだ。いいから体を休めろ」
それでも薫は心配顔で、目をつむろうとしない。体の位置を直しているのか、ごそごそ動いたと思うと、いきなり下半身に触れられて、縁はぎょっとした。小さな手が確かめるように触れてくるのを、細い肩を押しやって止めさせる。
「おいばかやめろ」
「でも、腫れてるみたい」
「腫れてるわけじゃない、単なる生理現象だ」
「だってすごく熱くなってるのに。痛くないの?」
「いちいち痛くなってたら男は全員欠陥品だろうが」
「また手伝ったほうがいい?」
頭が痛くなってきた。薫が純粋な眼差しが余計に気まずい。下らない戯れ言は二度と言うまいと縁は固く決めた。
「いいんだ、お前は自分の体のことだけ考えていろ」
実際、薫に無理をさせるつもりは芥子粒ほどもなかった。薫が眠るためだけの行為でしかないのに、余計な負担は与えたくなかった。物足りなさはあったが、それを薫にぶつける気はない。
「でも……」
そっと縁の体に触れた薫の、頬の高いところが赤くなっている。
「あのね……もし、わたしでも、手伝えるなら、なんでもするから……」
唾を飲み込んだ喉が鳴る。
(どうして、こいつは)
大きな溜息をつきたくなるのを精神力で抑えながら、低い声で呟く。
「ばか、不用意なことを言うな。お前はわかってないんだ、俺がどんなに―― 」
(お前をめちゃくちゃに犯してやりたいと思ってるか、わかっていないくせに)
とまでは言えなかった。あまりに男らしくない。なのに薫の黒い瞳は真剣そのもので、余計に頭が痛くなる。
「ッ……」
小さな手がまた触れてきて、勝手に反応してしまう。なめらかな手の感触をありありと思い出してしまう。薫が手慣れている、というわけではない。いたわるように撫でられるのがもどかしいくらいだ。直接触れてほしい。理性をかなぐり捨てて、小さな手を思うさまに使ってやりたい。いいや、手だけではとても足りない。
間近にある、潤んだ瞳にぞくぞくさせられる。この目が見ているのは、自分だけだ。
「…なら、手伝ってくれ」
押し殺した声で囁くと、薫が頷いたのがわかった。小さな手を取ると、自身の下半身へと導く。下穿きの外に出した陰茎に触れさせると、一瞬の躊躇いの後、薫の手が添えられた。薫の手は温かく、柔らかい手のひらに触れられただけで、嫌になるほど即座に反応してしまう。最初は探るように慎重な手つきで触っていた手が、少しずつ動いて、先端に近い裏側を擦られると、ずきずきと脈打ち、透明な液体が溢れ出た。ぬるついた手で触られると刺激が増し、快感が頭の芯まで昇ってくる。
「はっ……」
吐息ともつかない声がこぼれた。懸命さが伝わってくるからだろうか。薫のやり方は稚拙なくせに、意識が持っていかれそうになる。至極真剣な表情を浮かべながら、一心に自分に触れている薫を見ていると、それだけで果てそうになる。
白い指が動き、陰茎の窪みに指が触れるのがたまらなく気持ちいい。拙い動きが縁の血を掻き立て、呼吸は次第に乱れていく。じれったさで頭が霞んだようになり、情欲が理性を食い潰していった。薫に触れたい。体中をまさぐって喘ぐ声を聞きたい。
手を伸ばした薫の手首を掴んだ。自分に触れるのに集中していた薫が、驚いたように体をすくめた。目が合うと、申し訳なさそうに目を伏せた。
「ごめん、痛かった?」
「いや……」
伏せた目元が、ほんのり赤く染まっている。綺麗な色だと素直に思った。ただの娘のはずの薫が、不思議なほど色香を持つのは何故だろう。目が離せなくなる。
「お前を抱いていいか」
尋ねたわけではない。低い声で言いながら、既に縁は薫の上にのしかかり、逃れられないように細い肩を抑えている。
「もし辛かったら、俺を嫌いだと言えばいい。そう言えば止めてやる」
縁の手と顔を見比べた薫の瞳は明らかに戸惑いの色を浮かべていた。抱かれることか、嫌いと言えばいいか、どちらに動揺したのかは、どうだっていい。この小さな体を満足するまで抱き潰してやることしか考えられなかった。
「えに…」
名前を呼びかけた唇を唇で塞ぐ。下唇を舌でなぞり、薫の舌を誘い出す。教え込んだ通りに舌を差し出した薫の頬を褒めるように撫でながら、舌を絡め合う。深い口付けを繰り返しながらバスローブを脱がせる。白い胸乳があらわになりそうなところで、薫は慌てて胸元を抑えた。縁は喉の奥で笑った。
「いいかげん慣れろよ」
「ん……」
そっとバスローブの前を開き、傷一つない白い胸に手を伸ばす。どうして薫が隠そうとするのか、縁にはわかっていた。屍人形を貫いたのと同じ傷があるのではないかと、怯えているのだ。
「大丈夫だ、お前は生きている」
大きな黒い瞳が縁を見つめた。
「俺が生きているとわからせてやる」
左胸を形に添って指の腹でなぞると、薫は小さな甘い声をもらした。胸を下から持ち上げ、胸の先を口に含む。甘く歯を立てたり、先を尖らせた舌先で舐めたりすると、わかりやすく薫は反応する。空いている片手を下肢の付け根に伸ばし、小さな突起を剥き出しにして、親指と人差し指で優しくこねて、僅かに力を込めて摘まむと、びくんと小さな体が跳ねた。
「あぁ、あっ―― 」
まだ始めたばかりなのに、軽く達したらしい。やわらかい体から力が抜けていくのが目に見えて分かる。敷布の上にくたりと落ちた白い手を取ると、手のひらに口付ける。縁が与える刺激に従順に反応する薫が愛おしくてたまらない。交じり合う日々の中で、自分の手で薫が快楽を拾えるように作り上げてきた。いまや魂もこの小さな体すらも、自分のものだ。
「俺が嫌いか?」
(いいや、憎い、か)
淡々と尋ねてみる。すると、見る間に黒い瞳が潤み、涙が敷布に落ちた。
わざと焦らしたりするが、これほど底意地の悪い言い方を縁がするとは思わなかったのだろう。泣きながら唇を引き結んだ薫が、縁の顔に手を伸ばすと、頬をつねってきた。痛くも痒くもなかったが、一応眉を寄せてみせる。
「そんなに怒るなよ、ただ聞いてみただけだろ」
くつくつ笑いたいのを堪えながら白々しくうそぶくと、薫はますます気を悪くしたようだ。
「そんな言い方しないで。どうしてひどいこと言うの?」
「確かめておかないとわからなくなるからな」
「なにを?」
「……どうしてお前は俺に抱かれてるんだ?」
「どうして、って」
(わかってるさ、ただ逃げたいからだろ)
一体何を期待しているのだ。薫が自分を愛するわけない。そうとわかっていても、確かめずにいられないのは、薫もまた同じに、自分を必要としているのだと言ってほしいからだ。いつの間にか、そうした欲を抱いている自分がいる。
薫は言葉を探しあぐねているのか、目元をこすり、じっと縁を見上げながら、しばらくして言った。
「縁がさわってくれると、ほっとするの。こうしてくれるとね、ほっとする」
小さな手が、縁の手を柔らかい頬へと導いた。潤んだ瞳が縁を真摯に見つめる。
「だから……おねがい、離れないで、どこにもいかないで……」
懇願する声が少し震えていた。肉欲からではなく、薫が全身で自分を必要としている。なのに、胸に溢れる思いがなんなのか、縁はわからなかった。今まで満たされていたものとは全く違う。喜びだろうか、愛おしさだろうか。そうと呼ぶにはあまりに切ない思いだった。
「縁、どうしたの? おなか痛いの?」
薫が細い指先で涙をぬぐってくれて、はじめて自分が泣いていたのに気が付く。素早く体を起こし、顔を背けて目を擦る。涙はすぐに止まった。が、人前でいきなり涙を流した自分への動揺があった。薫に揺さぶられ溢れた感情が、勝手に涙に変わった理由が、よくわからない。
「ねえ、だいじょうぶ…?」
心配げに肩に触れてきた手を、やや乱暴に掴む。薫が痛みに手を引こうとすると、覚えのある感覚が湧き出してきた。全身の血脈が詰まり、臓物が体の外にひっくり返るような感覚だ。大丈夫だ、やはり薫を、殺せはしない。手を離した縁は、重い溜息をついた。寝台の上に片膝を立てて座り直してから薫へ顔を向け、口元だけで笑う。
「お前も知っての通り俺は聖人君子なんかじゃない。そういう奴に縋っているとわかっているのか?」
「……知ってるわ、よくわかってる」
薫は笑った。それがあまりに裏表のない純粋な笑顔だったので、縁はつい見入ってしまった。
「でもずっといっしょにいてくれたわ。起きてるときも、寝てるときも、ずっといてくれた」
だから安心できたのだと、薫は蕩々と語った。
「だから、あ…縁を好きじゃないなんて言えないの」
気遣った言い方が、縁を余計に苛つかせた。確かに薫は自分を求めてくれているのに、その言葉が薫の本心の全てではないからだと、ようやく気付いた。もっと、薫がどれほど自分を必要としているかを聞きたかったのだ。なのに薫は、肝心なところを口にしていない。
(なぜお前は曝け出そうとしないんだ)
「もっと他にあるだろ、あるはずだ。お前には俺が必要だろう? それは何故だ?」
「…………」
薫は申し訳なさそうに俯いてしまう。なのにその口は貝のように閉じられ、答えてはくれなかった。
欲しい言葉を貰えなかったばかりか、薫が心から自分を求めてくれない辛さを、先に感覚で嗅ぎ取ったせいの悔し涙だったのだ。薫は縁が渇望するものをいくつも寄越した。なのに、まだ全てを渡してくれないのが、腹立たしくてたまらない。
「はっ、いい子ちゃんのくせに何がわかってるだよ」
苛々しながら口走ると、細い肩を掴んで、また寝台に押しつける。薫の身体から力が抜けるまで唇を塞ぎ、抗う暇も与えなかった。もっとも、薫が恥じらいのため以外に自分に抵抗することなど考えられなかった。何度も抱いた体は、どこを弄ってやればいいか、よくわかっている。
「なら言いたくなるようにしてやる」
「……なんて…言えば、いいの?」
「全部をだ。加減なんか期待するなよ、いつもお前を泣かせてやりたくてたまらなかったんだ」
鎖骨に沿ってゆっくり舌を這わせながら軽く噛みつく。体を小さく震わせた薫の、堪えるような甘い声を間近で聞きながら、肩から首元に痕をつけていく。掌で腰や下腹を撫でる。薫が特に反応を示すところには触れず、しっとりと掌に吸い付く白い肌の感触をじっくりと楽しんだ。体温が上がっていくのがよくわかる。触れるだけのキスをすると、薫は自分から唇を小さく開いた。そうさせてから、またなだらかな肩や、細い鎖骨に口付けを落としていく。
薫が腕にしがみついてきた。自分から腰を動かして脚を擦りつけてくる。だが薫の力程度では、縁を動かすことすら叶わない。
「ん、んぅ……」
切なげな吐息がはっきりと聞こえる。薫の中に淫蕩な衝動が僅かずつ沸いていくよう、露骨に焦らしているのだから当前だ。執拗な愛撫をしばらく続け、体を起こした縁は、白い肌がうっすらと赤く染まっているのを満足げに眺めてから、薫の太腿を掴んで脚を広げさせた。
「やっ、やだやだっ」
会陰まで濡れている。相変わらず恥ずかしがって脚を閉じようとする薫に、縁は薄笑いを浮かべた。
「いやらしいな、薫は。そんなに俺が欲しかったのか」
「だ、って……」
懇願するように自分を見上げてくる表情に血が熱くなるほどそそられる。こんな表情を自分がさせていると思うと、縁自身の情欲も膨れあがった。
「そうだよな、辛くてたまらないよな」
体をかがめて、舌で濡れた帳を舐めてやると、薫が高く甘い声を上げた。すでに充分蕩けているのを吸い上げる。だが奥まで舌は入れない。表面だけをゆっくりと啜り、薫にも淫靡な音が聞こえるよう、わざと音を立ててやる。薫にはくすぐられているように感じるだろう。時折舌を差し込むふりをしてやると、とうとう恨めしげな声が薫の口からこぼれた。
「やだ、って、言ってる、のに」
抗議しながら、小さな泣き声が混じる。薫には大抵のことを受け入れるのを覚えさせたが、恥部を晒すのはどうやっても慣れないらしく、こうして嫌がる。縁をますます高揚させることなど知らずに。
「なあ、どうして嫌なんだよ。お前、好きだろう? 俺に弄られたくてたまらないんだろ?」
喉で笑いながら下腹のなめらかな肌を片手でゆっくり撫でる。いちばん快楽を感じやすい突起に届くところに触れるか触れないかのところで、わざと太腿へ手を動かす。薫のあからさまに落胆した吐息が鼓膜を喜ばせてくれる。
「やなの……こんな……はずかしいの……」
「なら選ばせてやる。見られるのがそんなに嫌ならやめてやるよ。代わりにこれもお預けだ」
「ん、んっ……」
陰茎と恥部を擦り合わせると、細い腰が快楽を求めて動く。赤く染まった頬を小さな手で隠す薫に、縁は腹の奥底から興奮が昇ってくるのを感じた。早く薫の中に潜りたい。挿入れてめちゃくちゃに動きたい。
これまでに、根気よく、一つ一つ恥じらいを潰してやりながら、薫の体調を慮り、好き勝手に動けない苛立たしさを抑えるしかなかった。我ながらよく我慢してきたと思う。
粘った水音を立ててやりながら、薫が頷くのを待つ。薫が自分の意思で頷かなければ、奪えない。
薫が、そろそろと頬に添えていた手を外した。自分を見上げながら、喉をこくりと鳴らして、おそるおそる小さな手を縁のほうに伸ばした。手を繋ぎたがっているのだろうと、縁は一旦掴んでいる膝裏を離してやった。だが薫は淫らに足を拡げたまま、縁の目から恥部を隠そうとしない。のろのろとした緩慢な動きを、縁が訝しみはじめる頃に、小さな爪を備えた指先で、充血した帳を自ら開いた。
「……もう、いやがら、ない、から……いじる、の、やめ、ないで……」
語尾はほとんどかすれていた。薫のまなじりからつうっと涙が流れ落ちる。僅かにだったが頷いた。確かに頷いてみせた。
「くっ、は、ははっ」
縁は急いで自分の口を手で塞いだ。そうしなければ狂喜の哄然で薫を怯えさせてしまう。注意深く息を吐いて、昂ぶった気分を散らす。
「ああ泣くなよ、わかってるさ、恥ずかしかったな。なのに頑張ってくれたんだよな」
「あ、あ、あぁっ」
細腰を掴んで持ち上げながら、力加減無しに薫の中に押し入る。苦しげに短い呼吸を繰り返す薫に顔を近づけ、額に貼り付いた黒い髪を直してやった。額に口付けを落としながら、薫の匂いを肺の中に取り込む。甘い匂いが、この上なく愛おしい。
「いいぜ、いくらでも悦がらせてやる。俺が天国に連れて行ってやる」
ずっとこうしたかった。薫の中を隅々まで愉しんで、俺のことしか考えられないようにしてやりたかった。
(悪夢? 声? どうでもいいだろ、俺以外は。どうだっていいだろう、なあ薫)
肌をぶつけ合う音が部屋中に響く。思うままに腰を打ち付けて、その度に快楽が全身を駆け巡る。体液が混ざり合って、至極滑りがいい。狭い膣内をこじ開けるのがたまらなく気持ちいい。なのに縁が腰を引こうとすると、引き止めるように蠢いて、どう動こうとも快感が迸る。何よりも縁を悦ばせたのは、薫の蕩けた瞳だった。
「はあ、ああ、んぅ、あ、ぁあっ」
やわらかな唇からこぼれる声まで甘い。自分が与える快楽に喘ぐ姿が、縁の血脈を熱く早くしていく。強い眼差しで相対したときの面影はまるでない。はしたない喘ぎ声をあげる薫を組み敷いている興奮は、細い腰を掴んで打ち上げるごとに増していった。薫が人としてまともに取り繕うことも忘れ、淫楽に溺れるようにしたのは自分だ。自分が刻み込んだ。そういう思いが、縁の血をより熱くする。
「……えに…あ、あっ、おね……して」
喘ぎながら、薫がなにか言っている。懸命に伸ばした手の小さな爪が、縁の胸をほんの軽く引っ掻いた。
「な、んだよ、キスしてほしいなら、舌出せ」
顔を寄せると、薫は伸ばしていた手を縁の首に回した。引き寄せられて、汗ばんだ肌同士が貼り合わせたようにくっつきあう。
「……おねが……もっと、ゆっくり……へん、になっちゃ、う……」
乱れた吐息に混じった懇願する声に、こめかみにどっと血が集まる。縁は薫の黒い髪の中に手を差し込んだ。
「嫌だ」
「ん、あっ―― 」
腰を深く押し上げて、薫の奥によく当てる。執拗に擦ってやると薫はすぐに音を上げた。
「や、それ、だめ」
「お前が頷いたんだ。なあ言ってみろよ、どう変なんだ」
「だっ、て、へんな、の、くる、し……あ、あぁっ」
ゆっくり動きながら薫が達するのは何度も見てきた。だが、もう物足りない。もっと別の表情を引き出したい。
水分をたっぷり含んだものがつぶされる音をさせながら、顔を逸らせないよう頭を抑えてやる。縁も短い呼気を吐きながら小柄な体を揺さぶり続けた。甘い薫の匂いがいっそう強くなる。息も絶え絶えな薫の瞳が助けを求めるように自分を見ているのがたまらない。耳朶を形に添って指で撫で、唇の端からこぼれた唾液を舐めあげる。その間もしたいままに動く。薫を壊すまいという気遣いより、獣のような衝動が縁の中に渦巻いていた。
「や…も……いい……」
「…は、なん、だって?」
「きもち、い……」
かすかな声が、縁の耳に届いた。一瞬だけ縁の首に回されている細腕に力が込められたが、すぐに力なく敷布の上に落ちた。夢見心地なのか、大きな黒い瞳は焦点が合っていない。移り変わる薫の表情を全て見ていた。死臭のする人形とは全く別物の、縁だけを求め、与えられるものを余さず受け取った薫の瞳の色を。これほど心惹かれるものは、他にない。
「かおる」
手で頭を支えてやりながら口付ける。息をするために薄く開かれた唇の中に舌を差し込み、ゆっくりと薫の舌に絡める。何度かまばたきした薫が、縁の頬に手を添えて、口付けに応えた。時間をかけてキスをしながら、おもむろに顔を上げる。
「だが俺はまだ物足りない」
軽く笑いながら、縁は言った。
「……?」
「言っただろ、お前を泣かせてやりたくて仕方なかったと」
「え、あっ…!?」
力の抜けた体をひっくり返し、うつ伏せにさせる。長い黒髪をひとまとめにしてのけると、なめらかな肌をした背中が露わになった。うなじから尾骶骨まで指の腹でなぞると、薫の体が震えるのが伝わってくる。緩やかな曲線でくびれた腰には縁が掴んだ痕が赤く残っていた。
「どうしてだろうな。時々薫が薫じゃないように見える」
縁の独り言に、振り返ろうとする薫の頭をぐっと抑える。見せないほうがいい。
(お前が美味そうな肉にしか思えないなんてな)
満たされることのない渇きから救ってくれるものを目の前にして、まともな顔をしているとは思えない。
「あ、あーっ」
腰を上げさせて屹立したものを突っ込みながら、いきなり与えられた刺激から逃れようとする薫の二の腕を掴んで引き戻す。先程より膣内が幾分柔らかくなっている。そのくせ陰茎を引き抜こうとすると縋るように締め付けるのだ。温かくて気持ちよくて、気を抜くと果てそうになる。まだ味わっていたいのに腰を打ち付けるのを止められない。見下ろしているからか、互いに荒い息を吐きながら交わっているのに、薫がよく反応を示すところがよくわかる。
「なあ、この引っかかるところが、好きなんだろ」
「ん、わ、かんな……」
「誤魔化すなよ、気付かれてない、とでも、思ったか?」
薄い下腹を掌で支え、最奥の上側を擦ると、薫の喘ぎ声が一段高くなる。まだ狭い奥をこじ開けるのがたまらなく快いが、それは薫も同じだろう。
片手を乳房へ伸ばし僅かに固くなった頂きを爪の先で引っ掻く。
「やっ……」
上半身を伏せてしまおうとする薫の胸乳の下に腕を差し入れ引き上げる。ほんのり淡く染まった乳房がふるりと揺れた。蕩けた瞳に自分だけが映っているのを確かめてると唇の端が勝手に弓なりに動く。
「薫のことならもう何でも知ってる。匂いも、味も、どこが弱いのかも」
頤を押さえて口を開かせる。薫は自ら小さな舌を差し出し、口付けをねだった。縁の手でも余る左胸を握ると、鼓動が伝わってくる。体温が高い。縁は込み上げてくるもので胸が詰まるような気がした。手に入れた喜びだろうか、求められる嬉しさだろうか。もはや思考能力が機能を失い、ただただ抱きしめている薫を求める以外に考えられなかった。
舌同士を合わせ、舌下をくすぐり、さらさらとした唾液を吸い上げてから、縁はふっと笑った。
「キスも好きだよな」
「……うん」
頬を染めながら薫は頷いた。
長い黒髪を中指の背に乗せ、するりと落ちていくのをまた拾う。
とっくに油の尽きた洋燈は煤で汚れきっている。窓を塞いだ木板の僅かな隙間から、昇りきった真白い日差しが見えた。
自分の肩を枕にしている薫の穏やかな寝息を聞いていると気持ちがくつろいでいくのが分かる。それに、やっと悪夢から引き離してやれた満足感もあった。
(最初からこうすれば良かったんだな)
休ませてほしいという懇願も無視し、気が済むまで交わった。薫が気を失いかけても違う快楽を与えて意識を引き戻させ、薫から欲しがるまで覚えさせた。とうに体力の限界を越えていた薫は、今やっと深い眠りについている。荒療治だったが、結果的に悪夢から遠ざけてやることができた。それに、縁も大いに発散できた。薫と交わるのは今までの義務的な行為と全く違う。軽い倦怠感すら心地良い。
予想外だったのは、満たされた気分と際限のない欲望は、同時にあるということだ。
薫の背に腕に回して引き寄せると髪の中に鼻先を埋める。薫の甘い匂いを吸い込めばすぐに血が昂ぶり、また求めたくなってしまう。揺り起こしたいのを堪えながら、薫を楽な姿勢に戻してやる。
(ったく、こんなの、どうすればいいんだよ)
半端にしたつもりはないが、尽きない欲望は、縁の手に余った。
(体力差がありすぎるのも考え物だな)
自分も眠ればいいのだが、血はまだ騒いでいるし、かといって薫の寝顔は見ていたい。涙の痕が残る目元を親指でそっと撫でながら、情けない溜息をつくしかなかった。
「ん……」
身じろぎした薫が、縁の胸に頬をすり寄せ、安らかな寝息がまた聞こえはじめる。
あれほど紅潮していた頬が、今はやや青白い。こうして深く眠らせてやることは出来ても、薫は悪夢に内側から蝕まれている。救ってやれる方法はいまだわからない。闇夜の中で自分を探し、全身で縋り付いてきた薫の体の軽さを思えば、あまり猶予が残っているとは思えなかった。
薫が仮初めでもいいから精神的な支えを必要としていて、求められるままに与えることは容易い。だがそれでは心は病んだままで、いっそう悪化していくのは目に見えている。なのに生きていれば構わないとすら思う自分がいるのも事実だった。
(……いいや、駄目だ)
薫を起こさないように寝台から起き上がった縁は二人分の身なりを整えると、慎重に薫を抱きかかえた。幸いにも薫が起きる気配は無く、昏々と眠ったままだ。窓を塞いだ部屋から出ると、昼と夜とを真っ二つに割ったような明るさが目に飛び込んでくる。眩しさに目を慣らしてから、邸の外へと向かった。
やけに長引く暑熱を避けるために辺りを見回すと、赤樫の木が目に入った。大きく広がっている枝葉の下は、丁度良く影になっている。根元に腰掛けてみると、一人が背を預けるほどの太さしかなかったが、程よく日差しを遮ってくれる。薫を自分の胸にもたせかけてやりながら、片耳を隠すように手を添える。薫の眠りを妨げたくはなかった。だがしばらくの間部屋に籠もったままでいたから、少しは日に当ててやらないと、体には良くないだろうと思ったのだ。
(手があるはずだ、薫をこのまま生かすための手段は必ずある)
ただ息をしているだけでは、あの死臭を纏った人形と変わらない。自分を求め、欲する言葉をくれる薫をなんとしてでも生かさねばならない。上海に溢れる数々の薬種や、貴族共が好む保養地などが頭に浮かぶが、どれも縁の探す解決法にはなり得なかった。だがこの弱い命を、今度こそ自分の手で守り通さねばならない。
訓練された兵士のような整然と揃った足音が段々と近づいてくる。音の方に目を向けるのも億劫だった。そんなものより薫を生かす方法を見つけなければいけない。
「お取り込み中、しつれ」
『失せろ』
一言だけ発すると、縁は肩にかけていた上着を薫に頭から被せた。
「少々話が」
『失せろ。誰もこの邸に近づくなと命じたはずだ』
四人の大男を侍らせた黒星は、動揺することなく言葉を改めた。
『もちろん命令は聞いたさ。けれどまだボスの部下ではあるんだから務めは果たさないとね』
小さく舌打ちすると、東京で起こった顛末を一通り聞き流した。最後の報告に、縁はつと顔を上げた。
『左頬に十字傷のある剣士が騒動を収めたとか』
『確かか』
『さあ、詳細まではなんとも。それより潰されたアジトの対処が先だからね』
やっと反応した縁に、黒星はせせら笑うように付け加えた。
『飼い犬の躾けは飼い主の責任ですからしっかりお願いしますよ。おかげで玄武が噛みつかれた』
歓迎していない客共が戻っていき、しばらくしてから、シャオが自分達に向かってのろのろと歩いてくるのが見えた。腫れ塞がった目を伏せながら命令を果たせなかったと謝罪した。
『下がっていい。傷の手当てをしろ』
献身だけが取り柄の部下は頭を低く下げ、下屋敷に向かっていく。あそこにはシャオの実兄もいるからどうとでもなるだろう。
一連のやりとりはごく短い時間だったが、上着をめくって確かめてみると、薫が自分にもたれて眠ったままなのにほっとした。もし起きてしまっていても、意味の分からない大陸言葉なら雑音にしかならない。本当なら余計な雑音のひとつたりとも薫の耳に入れたくはなかった。どんな音も今の薫には毒になる。
それにしても、
(あいつまだ生きてやがったのか)
抜刀斎の生死などすっかり頭から消え失せていた。
(亡者よりも浅ましい奴だな)
姉を殺したくせにのうのうと生き長らえ、その上薫を失ったのに、よく己の命を惜しめるものだと、むしろ感心してしまう。
ゆっくり立ち上がった縁は静かな邸へと戻った。自室へ行く前に、また風呂場へ行く。薫のバスローブを剥いでから、頭を膝に乗せて支えてやり、桶に溜めたぬるま湯を少しずつ寝顔かけた。
「わっ、な、なに、なになにっ!?」
驚いて飛び起きようとする薫を抑えながらもう一度湯をかける。シャボンを顔に擦りつけられた薫は、目を白黒させるばかりだ。
「なん、わぷ、まって、まってってば」
「汚れがついた。きれいにしてやるから目を閉じてろ」
「ええ、そうなの? やだな、いつからついてた?」
「ついさっきだ」
「さっき…ん、さっき…?」
穢らわしい視線が薫の肌にこびりついていた。黒星共が面白がるように薫を見たのに、胸が悪くなる。
顔だけでなく、首元、腕から手、バスローブに覆われていた胸元、平らな腹、爪先まで全部洗った。身を縮めてされるがままの薫から、一切の汚れを取ろうと、何度も湯を替えて洗い流す。そうしながら、縁は元の平静さを取り戻していった。
(必ず手立てはある。俺はもう無力なガキじゃないんだ)
薫の全身を一通り洗い終わると、少し考えてから、足の付け根にも手を伸ばすと、小さな手が慌てて押しとどめた。
「も、もういいから、自分で洗うから」
「そうか?」
少し離れて胡座をかくと、薫があからさまにほっとしたのがわかる。そのまま膝の上に肘をついて眺めていると、薫は次第にそわそわしだした。大きな黒い瞳をさまよわせ、なにか言おうとするのだが、どうやら言葉にならない様子だ。胸を隠しながらぺたんと床に座りこんだ薫の困り顔に、縁はとうとう笑ってしまった。
「もうっ、笑うのはやめてよ」
「笑わずにいられるかよ。どうして今更恥ずかしがるんだ」
「……ほんと、へそまがり、なんだから」
ぽそぽそと悪口を呟こうが、広くはない風呂場ではどうやってもよく聞こえる。
「へえ、手伝ってもらいたいのか」
「え、やだ」
「へそまがりはどっちだ。親切は素直に受け取るものだろ」
「こういう場合は余計なお世話って言うのよ」
「半分以上は俺のせいだからな。これでも一応責任は感じてるんだぜ」
腕を伸ばせば、簡単に掴まえることができる。引き寄せた薫はいくらかもがいたが、腿の内側に指を這わせると、すぐに力を失った。中に残っていたものがどろりとこぼれ落ちていくと、縁の肩に額を置いた薫が小声で呟いた。
「……あのね」
「ん?」
「ひとりじゃ、できなくて…てつだって、くれる……?」
真っ赤に染まった耳が震えているのが伝わってくる。粘っこく絡む体液は、薫の指では届かないところまで満ちている。ぐじゅりと音をさせ中指で掻き出しながら、縁は頷いてやった。
「ああ、俺がきれいにしてやる。といっても」
華奢な背中を抱き寄せながら囁く。
「どうせまたすぐ汚れるけどな」
聞こえているのかいないのか、縁の首にしがみついた薫は胎内で指が動くたびにあえかな息を吐いている。
この小さな体さえあればよかった。薫は自分を必要とし、求めてくれる。この上ない幸福感を噛みしめながら、縁の考えはまた元の位置へと戻っていく。
(どうすればお前を生かしてやれる)
弱り切ってしまえば、こんな脆弱な体はあっさりとはかなくなるだろう。取引を続けるためにはもっと確実な方法がいる。薫の吐息をひとつも聞き漏らさないようにしながら、縁は考え続けた。
落ちてきた涙が頬にあたった。黒い瞳からまなじりを伝って落ちていく涙に、薫はどうしていいかわからなかった。
(どうして泣いているの?)
なぜ抱かれているのかと尋ねられたから、触れてほしいからだと答えた。だれかの体温がそばにあるだけで安心できるからだ。ぎゅっと抱きしめてもらえれば、泣きたくなるほどこわいことも、耐えられないほどつらいことも、自然と離れていく。母がそうしてくれたから、そうしてほしかった。縁を悲しませたかったわけではない。
(おねがい泣かないで、泣かないで……)
指で一生懸命に涙をこすっていると、縁は黙って体を起こした。厭うように顔を背けられ、とたんに薫は怖くなった。
離れないでほしい。抱きしめてほしい。でなければ、ほんとうにひとりぽっちになってしまう。
「ねえ、だいじょうぶ…?」
薫も半身を起こし、こわごわと縁の肩に触れる。振り払われるのは怖かったが、急に泣き出した縁が心配だった。
大きな手に手首を掴まれる。いきなり強い力で掴まれたから、びっくりしてとっさに手を引こうとしてしまった。すぐに薫は後悔した。縁は傷ついた子どものような目をしている。年上の男に対しては失礼かもしれないが、薫にはそう見えた。
寝台の上で座り直した縁は、いつものように皮肉げに笑った。それが作り物の笑顔だともうわかっている。たくさんの悲しみをやり過ごすために縁が身につけたものだと思うと、胸が絞られるように痛んだ。罪悪感から逃れようとする自分とはまるで違う。心を休める場所もなく、ひとりで生きるために身につけるしかなかった強さだった。
「お前も知っての通り俺は聖人君子なんかじゃない。そういう奴に縋っているとわかっているのか?」
(ううん、そばにいてくれた)
自分の犯した罪が怖くて恐ろしくて、魂が寄る辺を求めたとき、手を差し伸べてくれたのは他ならぬ縁だった。
たぶん、正直な気持ちを伝えるのは、違うのだろう。
人の生き方に是非を問うことなど出来ない。いくつもの枝道の中から選び、藪の中をくぐり抜け、辿り着いた先に待っているものがなんであっても、それはその人だけのものだ。ちょうど自分が、夜の雑木林で縁を探し当てたように。
「知ってるわ、よくわかってる。……でもずっといっしょにいてくれたわ」
この人をどう思えばいいか、まだよくわからない。それでも確かなことがある。
「起きてるときも、寝てるときも、ずっといてくれた」
ずっとこの人の体温を感じてきた。浅い眠りの中からも、窓が塞がれた部屋でも、いつも抱きしめてくれていた。
遠い昔に失い、そして、自分のせいで失くしてしまったのに、与えてくれた。母と違ってちょっと堅かったが、深く胸に抱きしめてくれて、欲しくてたまらなかった抱擁をもう一度与えてくれた。
情けないが、これが薫の本心だった。
ひとりぽっちになるのが怖くてたまらなくて、いつでも安心できる場所を求めている。けれどちっともしっかりしていない自分を封じ、毅然と前を向かなければならなかった。父が残したものは娘である自分が守らなければいけない。泣き虫で甘えたがりな子どものままでいることは許されなかった。
そういう自分を受け入れてくれた縁のことを、どう思えばいいのだろう。
「だから、あ―― 」
あなた、ではない。名前で呼んでほしいと願った縁の切ない瞳を思い出し、薫はすぐに言い直した。
「縁を好きじゃないなんて言えないの」
どうして嫌いだなんて思えるだろう。欲しかったものを全部くれた人なのに。
「もっと他にあるだろ、あるはずだ。お前には俺が必要だろう? それは何故だ?」
「…………」
ぐっと詰め寄ってくる縁に、薫は目を伏せるしかない。
(ずっとずっとそばにいてくれる? ぜったいにわたしをひとりにしないって約束してくれる?)
そんなことは不可能だ。時は何もかもを変えてしまう。最初に母が、そして父もいなくなった。自分も幼い子どもではなくなった。恋しくてたまらない剣心は自分のせいでいなくなってしまう。弥彦もいずれ大人になり、左之助はひとところに留まれる性分ではなく、恵はいつか家族を探しにいくだろう。幼稚な言い分で大切な人たちを留めておけるはずがない。
「はっ、いい子ちゃんのくせに何がわかってるだよ」
縁の手でまた寝台に寝かされ、唇が触れあう。声がこわいと思う間もなく体から力が抜けてしまう。
あまくてやさしい、全身が溶けてしまうようなきすが、助けてくれた。まだ生きていたいとかぼそく泣き続ける魂を慰めてくれた。
(……さいしょは、やさしくはなかったけど)
ふわふわしはじめた頭の中で、ちょっと場違いな、あの夜のやりとりが思い浮かぶ。あれからもう何日経ったろう。
「なら言いたくなるようにしてやる」
「……なんて…言えば、いいの?」
ぼんやりと聞き返してはみたが、肩に触れている縁の手の熱さばかりが気になる。ひどく熱い手は薫を抱く前の合図でもあった。
「全部をだ。加減なんか期待するなよ、いつもお前を泣かせてやりたくてたまらなかったんだ」
(むずかしいこと言うなあ)
それでなくとも縁の手が触れるところに意識が持っていかれてくらくらするのに、己の心を直に掌に乗せられ、あまりの不出来さに打ちのめされている薫には、胸の内をどう打ち明ければいいのかもわからない。鋼のように頑丈で簡単に潰れないと思っていた。なのに、実物はこんなにも出来損ないの粗末な代物でしかなかった。
もっと触れてほしくて縁の腕にしがみつく。体温が心地良い。この体温があれば、息をしていられる。
どんなに恥ずかしくても受け入れるのに抵抗も薄くなってきた。こういう行為には詳しくなかったが、肌を合わせる意味は少しずつわかるようになってきた。交わることで、目に見えないものの代わりに、得られるものがある。
「かおる」
苦しそうに切なそうに自分の名前を呼ぶ低い声が耳に届く。自分を求める縁の目に嘘の色はない。肉体という壁を越えて、傷付いた魂に寄り添ってくれるのにほっとする。生きていたいと願う魂が、寄る辺を必要としていた。
「や、うごかさ、ないで」
想像していたより熱っぽくてもぞもぞと動く男の人のものを、ようやっと膣口に導いたところで、縁は薫の腰を掴んで引き下げた。やっぱりちょっとだけこわくて、そうっと、ごく慎重に動いていた薫は、息を吐くのがやっとだった。またがった縁の引き締まったお腹に手をついて、全身がしびれるような快楽に流されてしまわないようにじっと耐える。俯き加減の顔にかかる髪の先を、縁は楽しそうに指に絡めている。なのに目はこちらを見ていた。薫がどう動くのかを見逃したりしないよう、黒い光を目に湛えて、射貫くように見つめている。意地の悪さまで感じてしまうのは、気のせいだろうか。
薫は本当に困ってしまった。手伝いたいと言ったのは縁が苦しそうだったからで、閨事のあれこれをわかっていたわけではない。何度も与えられた快楽に体の方がついていかなくなっていたのに、縁の言うままに動いていたら、こうなっていた。横になった縁の上に乗っかってみたが、そこからどうしていいのかちっともわからない。
下から突き上げられてお腹は苦しいし、いつもより深く奥に届いて、ただ呼吸をするだけでもぞくぞくする。僅かな身動きでも体中に快楽が広がって、頭がどうにかなりそうだ。
「次は腰を動かしてみろ」
きょとんとした薫の表情がおかしかったんだろう。縁は愉快そうに笑った。
「こうやるんだよ」
「っ……」
掴まれた腰を揺すられ、下でも縁が腰を動かすので、薫の意識は千々に乱れた。
「だ、め、えに、まっ……」
「お前の髪はきれいだな」
いきなりなにを言い出すのだろう。揺さぶられて、短い呼吸を繰り返すだけの薫には、縁の意図など読めるはずもない。
「上海でもなかなかお目にかかれないほどだ。大体女は無駄に髪を結い上げてつまらない真似ばかりしてる」
両腕を寝台について上半身を起こした縁が薫の頬に手を添えた。
「薫はそのままでいればいい」
(そのまま……?)
背中に回った腕に引き寄せられ、太い鎖骨に顔がぶつかった。歯が当たってしまい、小さな傷を作ってしまった。その傷からじわりと血があふれていく。薄暗い視界の中で浮かんだ血の赤さが異様に目に付いた。
「ごめん、いたい? ごめんね、ごめん、ごめんなさい」
「…………」
顔を上向かせられた薫は、体の奥に熱が生まれるのを感じた。縁はとても大切なものを見るような瞳をしていた。体を繋ぎ合わせるのとはまったく違う、魂をやわらかく包まれる感覚に、薫はいとも簡単に支配されてしまった。
「きすしてえにし、きすして―― 」
縁は躊躇いなく懇願に応えてくれる。熱い舌先が唇を割って中に入ってくる。少しざらついた舌に上顎をなぞられると何も考えられなくなるほど気持ちいい。どんどん鼓動が早くなっていく。それが伝わってしまうのは恥ずかしい。なのに縁はますます腕に力を込めて、二人の体はぴったりとくっつき合う。
「ふぁ、んん、んぁ……」
拙い息継ぎと絡み合う舌の音が恥ずかしいはずなのに、気持ちが昂ぶっていくのを抑えられない。縁がくれるもので薫の中はいっぱいになる。
「ん、んんっ」
口付けしながら縁が腰を動かしはじめた。お腹の奥がきゅうっとして、身体が蕩けていく。熱くて大きな手に背中をまさぐられ肌が粟立つ。息苦しくてもかまわなかった。抱きしめてくれる腕の中でずっとこうしていたい。
ぞわりと覚えのある感覚がして、薫はあわてて縁の肩を押して離れようとした。
「逃げるなよ、今、いいところ、だろ」
縁に腕を掴まれて身動きが取れない。縁も息を荒くしていて、すまなく思ったが、薫はふるふると首を振った。
「だめ、だめなの」
「なんで」
「お、お手洗い、いきたくて…」
間近にいる縁が何度かまばたきをした。出し抜けに肩を震わせながら笑いだして、また体を引き寄せられたが、それでもまだ笑い続けている。頬をかあっと赤くしながら薫はじたばたともがいた。
「ねえ離し」
「どこにもいかなくていい」
耳のすぐ傍で笑いを含んだ低い声が囁く。
「どこにもいかないでいいんだ。ここにいろ。なんならずっといたっていい。解らなければ俺が全部教えてやる」
(ずっと、ここに…?)
薫はぽうっとしかけたが、すぐにお腹に生じた感覚を思い出して、もじもじと腰を浮かそうとした。ただそれだけのことが、余計に感覚を強くさせ、熱っぽい吐息に変わる。その吐息を飲み込むように縁は薫に口付けた。縁の腕は薫を離そうとはしなかった。肌を擦りつけ合い、薫の身体はいいように揺すぶられる。息継ぎもままならず、空気を求めて薫が顔を背けようとしても、すぐに強い力で戻される。息苦しいのに気持ちいい。ぞわりとした感覚はもう止められないところまできている。お腹の奥の擦られる刺激にとうとう耐えきれなくなり、ぎゅうっと縁の首にしがみつく。くぐもった喘ぎ声も縁が食べてしまった。肩で息をしている薫を、縁はそっと寝台に横たえてくれた。
変にどろりとした水音がして、薫はようやく息をつくことができた。というより、息をつく以外にできなかった。全身を走り抜けていった快さの余韻で、指から足の先までぴりぴりしている。体もくたくたで動けない。
汗ではりついた前髪をかきわけて、縁がきすしてくれた。うれしくて口元がへらりと笑ってしまう。
「えにしがしてくれるきす、好き……」
「そうか」
薫はくすくす笑い続けた。縁は気のない風に返事をしながら、珍しく耳たぶを赤くしている。どんなに安心するかを伝えたかったが、まだ体も頭も浮いてるみたいで、うまく言葉が出てこない。
「ならいくらでもしてやるよ」
大きな影がかぶさってきても、薫はしあわせそうに笑っていた。目を閉じ、きすを待ったが、なかなかしてくれない。お腹の下に熱くて固いものを感じたので、不思議に思い視線を下げた薫は、あやうく声をあげるところだった。性器を押しつけられている。大きな手が胸に触れようとするのとなんとか掴まえる。
「えっと、もしかして、まだする、の?」
「嫌なのか」
縁が怪訝そうな顔をするので、薫は焦った。
「いやじゃない、いやじゃないけど、ちょっと、休みたいかなー、って…」
「さっきはお前が動いてくれたからな。疲れたんだろう? あとは俺に任せればいい」
(さっきのを、もういっかい?)
刻まれたばかりの快楽を思うだけで、胸が勝手に高鳴る。同時に少し怖くもあった。もう体はくてくてなのに、これ以上交わったらどうなってしまうのだろう。
「まっ、ん、んっ……」
きすをしてもらうと、もう抗うことはできない。縁の乾いたにおいで胸がいっぱいになる。
「もっと口を開けろ」
口の中に指を差し込まれる。きすしてほしくて、言われるがままに舌を突き出している。縁の口付けをねだって勝手にそうしてしまうのだ。
止めてほしいときは、嫌いだと言えばいいなんて、ひどいやり方だ。もし口にしてしまえば、きっと縁は傷つく。
せめてもの抵抗で真っ黒な瞳をにらみつけてみたが、逆に目が離せなくなってしまった。夜よりも黒い瞳の中に、薫を欲しがるひたむきな色を見つけてしまったからだ。
(こんなの、ずるい)
泣きたいような、くすぐったいような、まぜこぜな思いを抱えながら、薫は縁の口付けを受け入れた。
体を洗ってもらい、下腹の異物感もなくなってさっぱりとしたはずなのに、どうしてか気分は落ち込んでいる。いつものように頭の高いところで髪をまとめると、両のてのひらを見下ろしてから西洋浴衣の襟元をきゅっと握る。
隣で体を拭っていた縁は、すぐ薫の様子に気付いた。
「どうした」
「ん……」
髪を耳にかけながら、なんでもないという風に笑ってみせる。
「ちょっとおなかすいちゃって。そうだ、お茶漬けでも作ろうかな」
戸に手をかけた薫は、ぐっと肩を引かれた。振り向かされた先で、縁がひどく怖い顔をしている。
「どうしたんだ」
ほんとうに些細なことで、わざわざ言う必要もないと思った。だが縁はまるで薫の胸の内を見通しているように、こうして心を配ってくれる。
「そりゃあおいしくないのがいやなのはわかるけど、そこまで詰め寄らなくたっていいじゃない」
「腹なんか空いてないだろ。お前、今何を考えた。まだ声が聞こえるのか」
たしかに空腹というのはごまかす口実でしかなかった。どうして縁にはほんの少し思ったことまでわかってしまうのだろう。
「ほんとにたいしたことじゃないのよ。ただ、ただね」
なぜだか縁の顔を見ていられなくて、そっと視線を落とす。
「縁のにおい、消えちゃったなぁって……」
この屋敷には薫の知らないものがたくさんある。サボンという舶来品は、糠袋よりずっと体をさっぱりさせてくれたが、自分の体に移っていた乾いた匂いも全部洗い流してしまった。なぜだかひどく心許ない。ただ普段通りに戻っただけなのに、どうしてだろう。けれどどこから来たのかわからない感傷を上手く説明するのが難しくて、薫はからりと笑ってみせた。
「ほんとにそれだけ。ちょっと残念だっただけなの」
今度こそ廊下にでようとした薫は、後ろから伸びてきた腕に掴まえられてしまった。後ろで思い切り息を吸う音が聞こえる。髪の匂いをかがれているのだとわかったときにはもう遅く、縁ははっきりと言った。
「お前はあいかわらず甘い匂いがするな」
頬に血が上って、薫は縁の腕をしゃにむに抜け出した。
「そういうことは、思っても、言わなくていいのっ」
赤くなっている顔を見られたくないのと、自分も似たようなことを言っていた恥ずかしさに、扉の取っ手を回すのまで乱暴になってしまう。とたりと軽い足音で廊下の床板を踏む。広い廊下は明るかった。やっぱり人の気配はなかったが、これほど昼間が明るいことを、薫はしばらく忘れていた。
(まぶしい―― )
縁が窓を塞いでから、自然な明るさの中に出たことはなかった。あのときは自分を責めてばかりで、けして忘れられない夢を見るばかりだった。昨夜は指一本も動かせないほど疲れていて、夢も見なかった。だが、あれほど深い眠りを受け入れてもいいのだろうか。体は幾分楽になったが、ものを考えようとすると、重い罪悪感ばかりが浮かぶ。
(……みんな、どうしてるかな)
近しく思う人たちのことを、考える資格すらない。深い悲しみをばらまいたのは自分ではないか。
「どうした」
ぼうっと立ち尽くした薫の背に縁が声をかけてくれる。自分の犯した罪の深さに泣いている心まで見透かされていた。鋭いほどに見抜かれている気がするのは、どうしてだろう。なんでもないと答えたかったが、声を出そうとすると唇がふるえて、声がかすれてしまいそうだった。乾いたにおいが消えてしまったからだろうか。いきなり一人だけ外に放り出されてしまったみたいだ。
これ以上耐えられない。求めるだけ抱きしめてくれる胸の中に戻ろう。
振り向きかけた薫は、廊下にいくつか並ぶ扉のひとつが目に留まった。
この屋敷でもっとも上等な客室がある。そして、死んだ自分の絵図も。
心得たように抱き寄せようとしてくれる縁の腕からするりと抜け、客室の扉の取っ手に飛びついた。ほとんど体当たりに近い勢いで部屋に飛び込んだ薫は、すぐに足の長い机に目をやった。机の上はきれいに片付けられ、紙の一枚も載っていない。当然ながらふかふかしている床にも塵ひとつ落ちていない。引き出しをがたがたと開けながら、筆や顔料の入った硝子瓶をかきわけ、底まで指が届くと、次の引き出しを開けようとする。縁が咎めるように薫の手首を掴んで、漁るのを止めさせた。薫は焦れながら縁を見上げた。
「ここに絵があったでしょう、あの絵をもう一度見たいの、確かめなきゃ」
「やめておけ」
「どうして」
「またお前が傷付くだけだ」
薫は首を振った。もう一度目にするのは恐ろしく怖かったが、それ以上の意味がある。
「たしかにあれは…私の死体だった。でも屍『人形』と記してあったわ。あの夜に剣心が戦ったのも人形だった。どちらも外印という人が作ったものでしょう? いくら人に似せても『人形』なら、必ずどこかにそうとわかるしるしがあるはず」
縁もまた首を振った。
「不可能だ。人の肉を使い、人形と見破れないほど精巧に作ってある。あれこそが俺の人誅の要だった」
掴まれていた手が解放され、大きな手が頬に触れる。
「あれを見た抜刀斎は絶望し自ら地獄に落ちた。薫は俺の悲願を叶えてくれただけではなく、しあわせにもしてくれた。だからもういいだろう。これ以上自分を傷付けるのはやめろ」
しあわせ、という言葉が、薫の心をたやすく攫いそうになる。人は悲しみの中では生きていけない。あたたかく、心安らげる場所が誰にも必要だった。しあわせな居場所があるから生きられる。みんなしあわせになれたら、どんなにいいだろう。
だが、縁がしあわせだと言ってくれているのに、薫は掴みかけたものから手を離せなかった。
「恵さんが教えてくれたわ。人の体の中には必要なものが全部ちゃんとしまってあるんだって」
「どういうことだ」
「膝をすりむいてもかさぶたになって治るのも、ごはんを食べれば体が動くようになるのも、冷たい水に触れてもちゃんと手が温かくなるのも」
言いながら、左胸に手を添える。
「心臓が絶え間なく動いて血を送り出してくれるからなんだって。それだけじゃないわ、肺があるから息が出来るし、どこかが痛くなるのはここが悪いと知らせてくれるもので、それに女の人にはここに……」
ゆっくり手を下げながら、下腹のあたりで止める。
「赤ちゃんを宿すための場所があるんだって。だから、もしかしたら、あの人形には欠けているものがあるかもしれない。死んだ私には必要のないものを省いていれば、人形だとわかるはずだわ」
腹を開いて中味を描いた絵図と、恵から教わった医術書の内容を照らし合わせれば、それが人形だと証明できるかもしれない。
「だから確かめたいの。私でも確かめることができれば、恵さんならもっと早くわかっているはずだわ。湯灌したときにどこかおかしいときっとわかってる」
(私がまだ生きているとみんなは気付いているかもしれない)
あくまでも推論でしかなく、それを裏付けるための絵図もまだ見つからない。再び引き出しを開けて探そうとした薫は、後ろ頭を押されて、縁の胸に頬を押しつける格好になっていた。聞き慣れた鼓動は少しも乱れていない。
「ここにはもう無い」
「じゃあどこに―― 」
元来の聡明さが見出した希望は、ふっと息を吹きかければ消えてしまう蝋燭の火のように弱い。薫が小さな手で一生懸命にかばおうとしても、ようやく灯った火は、縁を見上げたときに、あっけなく消えてしまった。
縁の唇は引き結ばれ、辛そうな顔をしている。この表情を薫は見たことがあった。
「……燃やしてしまったの?」
頷きもしないのが答えだった。なぜそんなことをしたのかと怒ったり泣いたりできたら、薫はずっと楽だったろう。
辛そうにする縁を間近に見てしまい、心がひどく混乱している。縁に対して抱いた息苦しい気持ちと、手掛かりがとうに失われていた事実と、なによりも自分の愚かさが腹立たしい。
(なにをめそめそ泣いてたのよ、もっと早く気付いていれば―― )
またたきもせずに薫を見下ろしていた縁が低い声で言った。
「抜刀斎は死んだ」
薫は顔色が変わるのを感じた。心臓が血を送るのをやめてしまったみたいに、額から頬、首、体が冷たくなっていく。
「さっき報せが届いた。あの夜から何日経っているか数えてみろ。もしあれが死体ではないと感付かれたのなら、なぜ誰もお前を迎えにこない? 第一お前が気付いたところで何が出来た? ここからは逃げられないと既に説明しただろう。全て俺の筋書き通りだ。あれはお前の死を意味し、抜刀斎は朽ちて死んだ」
薫が抱いた希望がいかに頼りないものかを、言い聞かせる口調で、淡々と並べていく。
「今頃は阿鼻地獄に辿り着いたんじゃないか」
縁は片頬だけで笑った。
渾身の力で縁の胸を押しやった薫は廊下に飛び出した。脇目も振らず玄関に向かう。
(けんしん、けんしん、剣心、剣心―― )
あと少しで外に出られるというところで、抗えないほど強い力が、私を後ろへ引き戻した。
壁に背中がぶつかり、何度も抱いてくれた腕が顔の両横に添えられる。額をくっつけ合うようにして、感情の読めない瞳が薫を見据えた。
「帰りたいの、おねがい行かせて、うちに帰らなきゃ」
「どうやって。鮫がうようよしている海を泳いでいくつもりか」
「鮫なんか噛みついて追っ払ってやるわよっ」
「はは、勇ましいな。なあ、海路で物資を運ぶのに事故は付き物だと知ってるか」
「私も事故に遭うかもしれないって言いたいの? そんなのやってみなきゃわからないじゃない、これでも水練には自信があるわ」
「違う違う。そう先を急ぐなよ、ちゃんと説明してやるから」
縁の指が顔にかかった髪を直してくれる。爪が食い込むほど拳を握りしめ、泣きそうになるのをこらえる。この指はなんどもやさしく触れてくれた。縁のやさしい仕草は薫の身体の隅々まで行き届いていて、ややもするともたれかかりたくなってしまう。すぐにでも帰らなければいけないのに、心と体はてんでばらばらだ。一体どちらに従えばいいのだろう。
「物資といっても色々だ。武器、金、食糧、それから人を積むこともある」
「…人が、物資?」
「沖に出たところで腹、腕、膝裏、どこでもいいから切れ目をいれる。太い血管のあるところがいい。海水に浸かっていると傷は塞がらないんだ。もちろんかさぶたにもならない。俺も仕組みは知らないが、鮫は海中でも血の匂いがわかるらしい。獲物の血だから余計に匂うんだろうな。そういう物資を不幸にも海に落としてしまった。手出しのしようがなかった。そういう事故はよくある」
「…………」
「ここいらの鮫は船影を見かける度に寄ってくるようになった。人の肉の味を覚えて、しつこく船の周辺をうろつくんだ。湾口までついてくる意地汚い奴までいる」
「だから諦めろと言いたいの? なら手こぎ船でもいい。この島には他にお屋敷があるわよね、断られても無理矢理にでも借りてやるから」
「いいから聞け、結論を急ぐなよ」
子どもをなだめるように言うと、縁は薫の額に口付けた。
「大事な女をわざわざ危険に晒したい男がどこにいる」
かすれた声でささやかれると動けなくなる。全身が抱擁を欲しているのを必死に抑えつけ、恋しい剣心の顔を思い浮かべる。大好きな、少しのさみしさをにじませた、安心させてくれる笑顔。
「でも、でも自分の目で見なければ信じられない。だから帰らなきゃ」
「帰ってどうするんだ。墓でも掘り返すのか」
「そうじゃない。私が死ねば剣心を苦しめることはできるわ。それでも死を選ぶほど弱い人じゃない。背負っているものを簡単に投げ出したりできない、悲しくなるくらいやさしい人なの。だから私なんかが死んでも」
「死ぬなんて言うな!」
びくんと体がすくみ上がった。怒鳴ったのを後悔したように、縁は顔をしかめている。深々と息をついて、また言い聞かせる口調に戻る。
「いいか、抜刀斎は死んだんだ。お前が戻ったところで既に墓の下だ」
それに、と一段声が低くなる。
「抜刀斎がなぜ死んだのか俺にはよくわかる。もしお前を、薫を失えば、生きていけない」
薫は驚いて目を瞠った。縁が剣心に同調するなど、けしてありえないことだった。縁の憎悪の深さを薫はつぶさに見ている。底が見えないほどの亀裂が二人の間にはあった。辿った道が大きく分かれてしまい、奪った者と奪われた者に分かれるしかなかった。それがわかるからこそ、自分に出来ることはないのだと早々に悟り、ただ私闘を見守るしかできなかったのだ。
「薫を失ったあいつは苦しみ抜いて死んだんだ。間違いなく醜い死体になってる。そんなものを見ればお前はまた泣くだろう。俺は嫌だ。お前が泣くのを見たくない。二度と戻るなんて言うな、もう全て終わったんだ」
縁の言葉が真摯であればあるほど、薫はなにが本当なのかわからなくなる。
あれほど剣心を憎んでいて、近くにいた自分も憎くてたまらなかっただろうに、今は泣かせたくないと言う。
実際、縁が殺せなかったから、自分は生きている。手を差し伸べてくれたおかげで、まだ息をしていられる。
「……どうして? どうして私を助けようとしてくれるの?」
ずっと疑問だった。何度も不思議に思った。どんな理由があってこの人は自分を生かそうとしてくれるんだろう。
執拗に迫りくる闇に耐えきれずに先に縋ったのは薫だった。だが縁は契約だと前置きしながらも受け入れてくれた。今思えばそこから掛け違いがあったような気がする。契約とは本来互いに利があるからするものだ。
薫は仮組みの堰を作り逃げ込むことができたが、縁に有益なことはひとつも無い。そうと気付いてしまえば、抱きしめてくれる腕を失うのがわかっていたから、ずっと疑問に蓋をした。自分の心の弱さをつくづく思い知らされても、見ない振りをしてきた。だって、ひとりぽっちになるのは、怖い。
それでも聞かなければならなかった。縁の言葉を信じるには、縁の本心を知る必要があった。
心臓がうるさいほど音立てている。無意識に胸元に手を添えた薫を、縁は静かに見下ろすだけだ。真っ黒な瞳はただ薫を見つめている。縁の瞳には今にも泣き出しそうな自分の顔が映っていた。しっかりしろと自分を叱咤する。ちゃんと聞かなければ。
「泣いてただろ」
頬に触れようとしてくれたのか、縁の手が動いたが、途中で躊躇うように手を握り込んでしまう。
「まともな精神状態ではないのはわかっていた。よりにもよって俺に縋るなんて馬鹿な奴だと内心あざ笑ってもいた。その時ふと思ったんだ、こいつは泣いているのに、姉さんはなぜ泣かなかったんだろうと」
瞑った目蓋が震えている。一呼吸分だけ目を閉じた縁は、再び薫に視線を合わせた。
「泣かなかったのは俺が無力なガキだったからだ。最初から俺が手伝ってやれることはなかった。だから姉さんは何も告げずに一人で出ていき、そして死なせてしまった」
「違うわ、あなたのせいじゃない」
思わず言い募ると、縁は口元をやわらかくほころばせた。
「いいんだ。悔しくはあるが、諦めもついた。薫が…まあ別に覚えていなくてもいいが…欲しくてたまらなかった言葉をいくつも寄越してきたから気付けたんだ。そのうちこうも思った。助けてやったらどうなるだろうとな。最初はただの好奇心だったのは間違いない。暇つぶしにもなるしな」
(そう、敵同士だったから)
屍人形の絵図を見たあとのことはぼやけている。顔を上げたら縁がいて、きすをしてくれて、やっと息ができるようになったのを覚えているだけだ。暇つぶしと言われても、らしいなあと妙に納得してしまう。
「世話を焼いてる間も薫は変わらず俺の求めるものを寄越してきた。言葉、態度、仕草…あれには参ったな。おかげで次第に考えが変わっていった。俺が助けてやらないとこいつは死んでしまう。何を捧げても生かさなくてはと思うようになった。いつの間にか薫がくれるものが欲しくなっていたんだ」
薫は首を傾げた。そこまで言ってもらえるほどのものを、縁に渡せたはずがない。
「私、頼ってばかりだったじゃない。一人じゃなにもできなくて面倒ばかりかけて……買い被りすぎよ」
「もっと頼ればいいだろ。俺はちっとも構わない」
ゆっくりと言い含めながら、縁は薫の手を取った。鼓動が大きく脈打つのがわかる。頼ればいいと言ってもらえた瞬間、薫の魂はあたたかなものに包まれていた。縁の言葉が泣いてしまいそうなほどうれしかった。だからきっと、いま抱きしめられたら、抵抗できない。半端なままではいけないと思うのに、どうしたらいいんだろう。
そんな薫の混乱をよそに、縁は自分の頬へと薫の両手を導いた。熱があるかのような体温が伝わってくる。
「どうすれば俺が幸せになれるかと聞いてくれただろ」
「うん」
たとえ敵であろうと、縁にしあわせになってほしかった。苦しいまま生きるより、心安らかにいてほしい。
「簡単だ、お前が俺を幸せにしてくれる。…これは前にも言ったな。けして買い被りなんかじゃない。薫が傍にいると恨みや憎悪を抱いていない自分に気付くんだ。自分でも驚くほど穏やかな気分でいられる。だからお前を助けてやりたいんだ。生きて、ずっと傍にいてほしい」
縁が手のひらにきすしてくれる。そんな風に触れてほしくない。体が抱擁を欲しがって仕方ないのに。
身をよじってみたが、縁の力は強く、けして手を離してくれそうにない。
「でも、でも帰りたいの、剣心が、みんながいるうちに帰りたい」
「抜刀斎は死んだ」
聞きたくないのに、低い声がかぶさってくる。
「むかつくが、なぜあいつが死んだか俺にはよくわかる。幸福だったんだ。お前がくれるものを享受してこの上なく幸せだったのにまた全て失ったんだ。諦めた方が楽だったんだろう」
ちがう、と言いたかった。剣心が諦めてしまうはずがないと反論したかった。
けれど、剣心が数え切れないほどの悲しみを胸にしまい込み、戦い続けてきた理由を薫は知っている。また失わせてしまったのは、他でもない自分だった。
―― どうして逃げなかったの、ぜんぶ私のせいだわ、私のせいで
足元の闇が蠢いている。獲物の気配を敏感に感じ取り、喰らおうと口を開けている。鮫に食べられるのはこんな感じだろうか。この苦しみから助けてくれる腕はごく近くにある。何度も抱きしめてくれた腕の中に飛び込めば、きっと楽になれる。そうわかっているのに、気力を振り絞って、薫は手を引いた。縁の体温はすぐに消えてしまう。自分から離れられたこと自体信じられない。この体温が、こわいものを、ぜんぶ追い払ってくれていたのに。
「あなたの言うとおり、もし、ほんとうに剣心がいなくなってしまっても」
声が震えそうになるのを必死にこらえた。帰らなければいけない理由は他にもあるからだ。
「弥彦を放っておけない」
「誰だヤヒコって」
尖った縁の声も耳には入らない。息苦しい胸を押さえながら、声を絞り出した。
「弥彦はまだ子どもなの。しっかりしてるけど、あの子はまだ子どもなのよ。誰かが見守っていてあげないと」
もし弥彦まで死んだ自分を目にしていたらと思うと、申し訳なさで胸が貫かれたように痛む。泣かせてしまったかもしれない。少なくとも深く傷付けた。かわいそうなことをしてしまった。
「怪我もまだ治ってないかもしれない、服だって繕ってあげなきゃ、教えなきゃいけないこともまだたくさんある。いいえ、私が師としてとっくに失格なのはわかってる。でも、せめて、謝りたい……」
生意気で口も悪く手の掛かる弟子だったが、薫にとって家族に等しかった。もしも縁の言葉が事実なら、弥彦は剣心を喪った悲しみまで味わったのだ。取り返しがつかないのはわかっている。それでも悲しませてしまったことを謝りたい。
「そのガキがお前を恨んでいても帰りたいか」
「うらむ?」
いきなり違う方角を指さされたようで虚を突かれた。胸に残っている思いをかき集めながら言葉に直す。
「実は生きてました、なんてひょっこり出て行ったら、あの子びっくりするでしょうね。それから、私が生きていてよかったって、よろこんでくれる」
弥彦だけではない。左之助も恵も妙も燕も、親しく思う人たちみんなが手放しに喜んでくれる。
「剣心を追い詰めてしまった私が、生きていて、よかったって……」
やさしい人たちを悲しませてしまったことが心苦しくて申し訳なくて、胸が絞られるように痛い。
「言っただろう、抜刀斎は死んだ」
いやいやと力なく首を振る薫に構わず縁は続けた。
「それでも帰りたいのか」
「ええ。謝らなきゃいけないから」
それまで薫を見ていた縁が、玄関に目を向けた。
「ひとつ聞くが」
「なに?」
「仮に東京に戻ったとして、お前がしあわせになれないとわかっているか」
「もちろんわかってるわ。みんなを悲しませてしまった責任は―― 」
「やはりな。お前は気付いてもいない」
玄関に向けた視線を薫に戻してから縁はこころもち体を引いた。
「そのヤヒコというガキがそれほど大事ならここにいろ」
この屋敷で初めて言葉を交わしたときのように淡々と話しはじめた縁に、薫は孤独に怯える心を懸命に殺した。
「確かに謝りたいという私の気持ちは自分勝手でしかないわ」
「そうだな」
「今まで通りなんて望んだりもしない。弥彦が一人前になったら、どんなにかかってもいいから剣心を探しだしてみせる。それ以外みんなに償える方法がないから」
「で? 野垂れ死んだ死体を弔ってやるというのか」
「いいえ生きてる。剣心はきっと生きてる」
闇が喉の近くまで這い上ってきている。それほど冷たくないのが意外だった。罪を贖うと決めた以上、寄り添ってくれるのはこの闇しかない。耳元で責める声はいつだって自分の咎を知らせてくれる。飲み込まれれば考える必要がなくなり、いっそ楽かもしれないとすら思えた。
「お前、本当にわかっていないんだな」
長々と溜息をついた縁は瞳に哀れむような色を滲ませた。
「いいだろう。俺には証明する術がなくお前にも確かめる方法がない。抜刀斎はまだどこかで生にしがみついてるかもな。その上でお前がまだ理解していないことを教えてやる」
心臓が痛いほど乱れ動いている。縁の言葉が怖かった。
(私がわかっていない? なにを? 私はまだ間違えているの?)
冷たい汗が背中に浮かぶ。玄関に少し目をやったとたんに縁の視線が薫を縛った。逃げる隙などどこにもなかった。わずかでも身動きしようとすれば、また手加減無しに押さえつけられるだろう。
これほど縁を遠く感じたことはない。あんなにやさしく抱きしめてくれた人なのに。
「そのガキが大事なら」
なぜか縁は一瞬顔をしかめた。すぐに表情は戻ったが、まるで痛みをこらえるようだった。
「二度と目の前に現れてやるな。お前が戻ったところで抜刀斎が消えた事実は変わらない。お前を見る度に抜刀斎が消えたと思い知るのが酷だとなぜわからない」
(ああ―― )
言われて、はじめて自分が神谷道場に戻った後のことに気付いた。縁の言うとおりだ。どうしてこんな明白な間違いに気が付かなかったのだろう。
剣心はきっと生きている。だが縁の言うとおり、もう道場にはいないだろう。とてもやさしい人なのだ。自分の死に己を責めて、あたたかな居場所を去ってしまう。みんなに剣心を喪わせてしまったのだ。
自分が犯したもっとも重い罪科に、どうして気が付かなかったのだろう。
「それでも帰りたいならすぐに連絡船を呼び寄せお前を送り届けてやる」
幾分やわらかくなった縁の口調に、薫は首を振る以外にできなかった。
「あなたの、言うとおりだわ」
帰れば弥彦が、親しく思う人たちがやさしく迎え入れてくれる。生きていてよかったと、心から喜んでくれる。そうとわかるからこの上なく苦しい。
「私は、いないほうが、いい」
やさしい人たちに剣心を喪わせた苦しみを必ず思い出させてしまう。けれど自分の前ではけして表に出さない。
帰りたい。会いたい。けれど大切な人たちをこれ以上苦しめてはいけない。
神谷道場はとっくに自分の居場所ではなくなっていたと、薫はようやく理解できた。涙がぽたぽたと床に落ちた。
(そっか、またひとりぽっちになってたんだ)
母はいなくなり、父は戦争から戻ってこず、剣心は遠くへ行ってしまった。あの絵図を見たときからわかっていたはずなのに、浅ましく望んでしまったから、生きたいと願ってしまったから、ひとりになるのが怖かったから。
自分に帰る資格などあるはずない。だって、皆を傷付けてしまったのだ。幼い頃の思い出のような、懐かしい場所を、ただ思うだけでも申し訳なくて涙が余計に落ちる。
「怯えなくていい」
ぼんやりと縁を見上げると、怖くも冷たくもない、真剣な眼差しがそこにあった。
「俺が傍にいてやる」
心がぎゅっと縮まる。
ずっと聞きたかった言葉だった。無理だとわかっていても、たった一人でいいから、そう言ってほしかった。
袖で涙をぐいとぬぐって深く息を吸い、胸元に手を添えて声を整える。
「怯えてなんかいないわ。ちょっと前に戻っただけだもの。ただそれだけ。ちゃんと受けとめなきゃね」
背筋を正し、縁の眼差しを正面から受ける。
「それじゃあ申し訳ないけど物資のついででいいから東京以外に運んで―― 」
「嫌だ」
強い力で手首を掴まれ薫は思わず身を固くした。縁の手はひどく熱い。
「どこにも行かせない。誓ったんだ、俺は薫を一人にはしない。片端になろうと片目を失おうと必ず傍にいると」
よく覚えている。熱い手に触れられれば、なにも怖くなかった。縁がいたからこうしてまだ生きている。縁からもらう体温が、どれほど薫の魂を守ってくれたことだろう。
「絶対に薫を一人にはしない」
「そんな、そんなの無理だわ」
やっと状況を受け入れようとしているのに、縁は容赦なく薫をくじけさせようとする。
「どんなに気を付けていたって、いつ病になるかわからない、事故に遭うかもしれない。絶対になんて」
「なら不死の秘薬を手に入れてでも薫をひとりにはしない」
縁は真剣そのものだ。薫はまばたきを繰り返した。
(極端だなあ)
こんなときだというのに、薫はちょっぴり笑ってしまった。けれど縁なら手に入れられる気がするから不思議だ。話し方のせいだろうか。嘘やごまかしは感じられない。たしかに縁なら絵物語でしか見たことのない、永遠の命を得られるという薬もなんなく持ち帰ってくるだろう。
「でもわたし、縁に、なにもしてあげられないの」
掴まれている手首に視線を落とし、ぽそぽそと正直な気持ちを口にする。情けなくて鼻の奥がつきりと痛む。
縁がいくら言ってくれても、薫は自信を持てなかった。あまりに多くのことがありすぎて、しなやかな心は萎れ、重い疲れが正常な思考を奪い、頭の中はぐちゃぐちゃだ。自分が縁にできることなどひとつも思い浮かばなかった。
「だから、っ」
縁の手に力が込められ指がしびれる。思わず手を引こうとしたのに少しも動かせなかった。手の中に血が溜まり痛みに変わっていく。
「いたい、えに…」
手首を掴んでいた力が緩んだ。
顔を上げた薫は、なにも言えなくなってしまった。縁が炎に照らされていた横顔よりも辛そうだったからだ。真っ黒な瞳は潤み、声も出せないでいる薫が見ている間に、ひとすじの涙に変わった。
「ただ傍にいてくれるだけでいいんだ」
擦れた低い声がひどく心細そうで、薫まで哀しくなる。これほど辛そうな表情は見たことがない。
手の痕がついた薫の手首を、縁はそっと撫でてくれた。撫でられたところから痛みがやわらいでいく。大きな手が大切なもののように扱ってくれる様に、薫は息苦しさと同じくらい安堵していた。ほおやくちびる、髪を撫でてくれるときと同じだったからだ。こわいものが近づかないようにしてくれた、やさしい手。
大きな手が首元に添えられる。両手に力を込めたらしいが手首に込められた力と比べればくすぐられているようなものだ。
「置き去りにされるのは、もうたくさんだ」
縁の手から伝わってくる震えが、薫の魂まで泣かせた。ひとりきりになる寂しさ、怖さを、薫もよく知っている。
(ひとりぽっちは、こわいもの)
大切に思う人が自分を置いていってしまう辛さはよくわかる。
縁の手はあっさりとほどかれた。初めから絞める気などなかったのだろう。だらりと両手を落とし、唇を引き結ぶ様子は、泣き出しそうな子どもによく似ていた。その表情を見てしまった薫の体はひとりでに動いていた。
たったひとりでいい。ただそばにいてくれるだけで、どんなに心を強く持って生きられるだろう。
自分よりずっと大きい男の体をなんとか抱きしめようと、爪先立ちになり、精一杯腕を伸ばしてみたら、首まではなんとか届いた。かなり苦しい姿勢だったが、すぐに力強い腕が背中を支えてくれた。乾いたにおいに包まれながら、大きな背中を撫でてやる。実際は肩のすぐ下までしか届かなかったが、縁がほっと力を抜くのがわかって、薫も安心できた。少しは慰めになったようだ。
「約束する、俺がずっと傍にいる。けして薫を一人にしない」
(ずるいなあ)
どうして縁は薫が欲しい言葉をくれるんだろう。そんな風に言われたら、とても敵わない。
いつも心の底でやさしい抱擁を求めていて、そんな弱さがどれだけ薫をしょげさせたことだろう。縁の腕はあまりにあたたかく、疑うべくもなかった。きっと、死の間際まで、抱きしめてくれる。
「うん。わたし、がんばってみるから」
母が抱っこしてくれた思い出がまぶたの裏に浮かぶ。あのやさしくあたたかい胸にいれば、なんにもこわくなかった。このひとに、縁に、これ以上悲しい思いをしてほしくない。母のようになれるかはわからない。けれど努力すれば、少しくらいは安らいでもらえるようになるかもしれない。放っておけないのだ。あんなにつらそうな表情をさせたくない。
「役に立てるよう、がんばるから」
「別に頑張らなくていい。薫がいれば俺はしあわせになれる。薫が俺をしあわせにしてくれるんだ」
(ほんと極端だなあ)
皆、簡単にしあわせになれないからから苦しいのに、縁はあっさりとしあわせになれると言う。いっそう強く抱きしめられてちょっぴり苦しかったが、あたたかくて、ほっとする。母とは違う。けれど、望むだけ抱きしめてくれる腕だった。
「お前も約束してほしい」
「やくそく?」
縁の顔を見ようと動こうとすると、頭を抑えられて、頬が固い胸にますますくっつく。鼓動がいつもより大きい気がするのはどうしてだろう?
「薫には笑っていてほしいんだ。頼めるか」
いつも心の底で求めていたやさしい抱擁をもう一度くれたのは縁だった。この腕の中でなら心安らかでいられる。たくさんきすして安心させてくれる。なら笑えるよう努力してみよう。それでこのひとがしあわせになれるのなら。
薫はそっとほほえんでから呟いた。
「うん、わかった」
縁との約束をのみこんだ瞬間、薫の中から、一切の声が消えた。
屍人形を忌まわしく思ったのは自慢げに披露された時だった。
長年の悲願を締めくくるのに相応しい代物であったのは確かだ。疑いようもなく神谷薫の死体であると判断される。だが閉じられた目蓋は眼窩に向かって奇妙に落ち窪んでいた。目玉は痛みやすいから最後の仕上げに入れるのだと、大量の氷で埋まった器を差し出され、どれにするかと気安く尋ねられた。目玉に連なる視神経が氷に貼り付いている様に、なぜか胸が悪くなった。だが同時に安堵したのも事実だった。屍人形は単なる物であり、どう扱おうと、心を乱す物ではないとわかったからだ。これさえあれば人誅を成し遂げられる。縁が選んだのは虹彩が一際黒い目玉だった。
薫の腕を掴むと、力任せに引き寄せ壁に押しつける。動けないように体を使って逃げ道を塞ぎながら、息が通い合うほど近くに顔を寄せる。
大きな黒い瞳の中に光が戻っていた。屍人形に使った目玉とは全く違う、諦めを知らない一等星のような光。
(あと一息だったのに)
薫が正気を取り戻さないようにじっくりと仕向けてきた。渇望してやまなかったものを寄越す薫を、自分だけの物にする為に、自分だけを頼り縋るように作り替えてきた。あとは脆弱な体を正常に保つ手段さえあればよかった。
「帰りたいの、おねがい行かせて、うちに帰らなきゃ」
あの夜の、真っ直ぐに射貫いてきた瞳が、自分を見ている。この目を見ていると無性に苛々する。
「どうやって。鮫がうようよしている海を泳いでいくつもりか」
「鮫なんか、こっちから噛みついて追っ払ってやるわよっ」
すぐさま言い返してくるのに、縁の苛立ちは募った。抜刀斎は死んだのだと言ってやっても、天然の要塞であるこの島からは抜け出せないのだとくどいほど説明してやっても、薫は納得しようとしない。縁は迷わず搦め手にまわった。
「大事な女をわざわざ危険に晒したい男がどこにいる?」
額に口付け囁いてやると、薫が抱擁を求めているのが手に取るように分かった。人を疑い怪しむのを非道だと思い込んでいる薫ほど考えを読みやすい相手はいない。思考を読むのは澄んだ水底を覗くように容易い。
敵である自分を憎みもせず、全てを委ねて眠る薫を眺めていると、引き込まれるように感情がなだらかになるのがわかった。完全に手に入れたときの喜びはどれほどだろう。新雪を意味もなく歩き回り、足が凍えきったところで後ろを振り向くと、自分の足跡だけが残されている。そんな幼稚な想像までした。
だが薫は驚くほど抵抗してみせた。知りたくもない抜刀斎のことを語られ、怒気が喉元まで迫り上がってくる。薫らしくない死という言葉を口にされたとき、憤りを吐き出さずにいられなかった。
「死ぬなんて言うな!」
真正面から怒気をぶつけてしまい薫の瞳に恐怖の色が浮かぶ。自分の軽挙さまで腹立たしい。薫を怯えさせたくなかった。
「……抜刀斎がなぜ死んだのか、俺にはよく分かる」
全てを諦めたという男の姿は想像に難くない。それほどに薫がくれるものは価値があった。あの男に同情するなど不愉快極まりないが、今は腹が立つほど理解できる。
「もしお前を、薫を失えば、生きていけない」
自分を一心不乱に探し求めてくれた。自分のために泣いてくれた。愛おしげに名を呼んでくれた。
最初はただの手駒だった。天が誂えたように用意してくれた立て役に、柄にもなく感謝したものだ。だが共に過ごす内に、薫が寄越すものが次第に身体中を満たすようになった。ささやかな気遣いや、裏のない心配、必要としてもらえる喜び。全てを独り占めにしたいと思った。血肉として喰らってでも己の物にしたかった。
薫さえいれば生きていける。薫を少しずつ作り替えながら、同時に自分の心の有り様まで変わっていった。変化を平静に受け入れている自分さえいた。ひとたび手に入れてしまえば、薫は失った以上の真新しい喜びをくれる。手放す事など出来ない。
「どうして? どうして私を助けようとしてくれるの?」
脈絡のない問いかけに一瞬面食らった。薫の真意を計ろうと水気の多い瞳を覗き込むが、そこには一途に思い詰めた気配しかない。空しい虚脱感が肩にずしりと乗ってきた。そうか、と腑に落ちた。半狂乱だった薫に言葉が届いていたはず無い。その後も伝え方が足りたとは言えなかった。なにしろ薫は正常ではなかったのだから。つまびらかに説明し直し、理解を得る必要がある。一時的に正気を取り戻しているのは良い機会でもあった。
(……厄介だな)
胸の内を晒すのは、存外に胆力がいるのを今更ながら思い知る。だが薫が知りたがるのも無理はない。敵同士の間柄だったのだ。手っ取り早くキスしてやろうかともちらりと思ったが、薫を余計に混乱させるとわかりきっていたので、伸ばしかけた手を握り込んだ。
腹を決めると、縁は一から話始めた。泣いていた薫に単なる興味本位で近づいたことも隠さずに話した。
姉は泣かなかったと口にしたとき、いきなり目の奥が熱くなった。堪えるために目蓋を閉じる。
(姉さん)
胸の中にいる無感情な姉の姿が浮かび上がる。美しい瞳には冷ややかな気配さえあった。今なら姉が何を言いたいのかわかる。清らかな魂を強いて手に入れようとする縁を咎めているのだ。
(もういい)
自分がどれほど薫を必要としているか、姉なら理解してくれるのではと僅かな期待があった。ならどうして死んだのだ。なぜ自分を置いていったのだ。これ以上飢え渇くのに耐えられない。姉の仇を討つために生きてきた。その為ならなんだって出来た。けして姉の無残な最期を忘れたことはない。だが黙って佇むだけの姉は、縁に痛苦をもたらすだけだった。
「どうやったら俺が幸せになれるかと聞いてくれただろ」
「うん」
素直に頷く薫に胸がまた熱くなる。泣きながらも真正面から言ってくれた薫に、頭がぼうっとしたのを忘れられない。考えも及ばないことだった。薫から見返りのないやさしさを差し出され、さんざん迷いながら、名前を呼んでくれるよう希った。親しみを込めて名前を呼んでくれる人が、この世のどこにもいなかったからだ。自分の為に泣いてくれた薫に呼んでほしかった。
「簡単だ、お前が俺を幸せにしてくれる。…これは前にも言ったな。けして買い被りなんかじゃない。薫が傍にいると恨みや憎悪を抱いていない自分に気付くんだ。自分でも驚くほど穏やかな気分でいられる」
薫の寝顔を見ているうちに何度も夜が明けた。悪夢が薫に近寄らないよう見張る必要があったからだ。長く退屈な時間のはずが、全身を預けている薫の寝顔を見ていると、様々な思いが頭を駆け巡った。聞きたかった言葉、見たかった笑顔、いつまで経っても恥ずかしげに自分を求める声などが思い出された。自分が助けてやらなければ枯れてしまうか弱い命を守ることで頭がいっぱいだった。そう考えている間は確かに焦りもあったが、薫をどうしてやればいいかと思いを巡らせていると、体の重みもなくなっているのだ。正確に言えば憎しみを全て捨てきれたわけではない。だが自分を覆っていたものを脱ぎ捨て、薫に近いところにいてみると、己を生かしていた憎しみから自分を解放するのを許していた。無力だった頃の自分を認めることもできた。
「だからお前を助けてやりたいんだ。生きて、ずっと傍にいてほしい」
縁の内側に、いつの間にか薫がいて、笑いかけ、頷き、声をかけてくれるようになっていた。姉の哀れな最期を忘れるなどできない。だが薫が傍にいると、ずっと楽に呼吸できる。姉が生きていた頃の感覚にひどく似ているのだ。
(お前が俺を幸せにしてくれる)
小さな手に唇を寄せると、かすかに震えているのが伝わってくる。体を支配しようが薫の中に住み着く住人を簡単に追い出せる訳がない。父親すら見捨て他人を踏みにじり生きてきた自分には迂遠なものだったが、薫が周囲に愛され必要とされる理由はこの二週間でよく理解できた。
「でも、でも帰りたいの、剣心が、みんながいるうちに帰りたい」
こんな小さな体でもがいたところで振り払えるはずがない。頬に薫の体温を感じながら、みんなとは何人だろうと頭の中で数える。四、五人くらいだろうか。少なくともあの夜には抜刀斎と薫と何人かがいた。有象無象と分け合うなど許せない。薫のやさしさは自分のものでなければいけない。喉まで出かかった笑い声を抑えるのに苦労する。可哀想に。独り占めにしなければ気の済まない男に縋ったばかりに、逃げ道も失くなってしまった。
「抜刀斎は死んだ」
(俺が殺すからな)
薫のやさしさを無為に奪っている抜刀斎を真っ先に罰する。まだ生きていてくれて幸いだった。
「むかつくが、なぜあいつが死んだか俺にはよくわかる。幸福だったんだ。お前がくれるものを享受してこの上なく幸せだったのにまた全て失ったんだ。諦めた方が楽だったんだろう」
命を惜しむ浅ましい男を自分の手で確実に始末できる。目玉を潰し、口角を切り開いて黙らせ、四肢の骨を断ち、達磨にしてからじっくりと姉を殺した罪状と薫から幸福を貰う資格すら無いと丁寧に説いてやろう。諦めた方が楽だったと思い知るまで地獄には行かせない。
薫の爪が軽く頬を引っ掻いた。手を胸元できつく重ね合わせた薫は、泣くのを堪えながら僅かに首を振った。
「あなたの言うとおり、もし、ほんとうに剣心がいなくなってしまっても」
(あなた、か)
淡い感傷の苦みが広がる。どれほど大切にしても、まだ薫を手に入れられないのが口惜しい。
「弥彦を放っておけない」
「誰だヤヒコって」
いきなり別の男の名前が出てきた。慌ててあの夜の記憶を手繰り寄せる。チンピラと警官の格好をした油断ならない目をした男がいたはずだ。
「弥彦はまだ子どもなの。しっかりしてるけど、あの子はまだ子どもなのよ。誰かが見守っていてあげないと」
(こども?)
貞操を奪ったにも関わらずつい狼狽えて薫の腹に目をやっていた。だが話を聞く内に、やっと威勢のいいガキがいたことを思い出す。
「怪我もまだ治ってないかもしれない、服だって繕ってあげなきゃ、教えなきゃいけないこともまだたくさんある。いいえ、私が師としてとっくに失格なのはわかってる」
ヤヒコという子どもを心から案じどれほど大切に思っているかは、薫の語り口ですぐにわかった。同時に言いようのない感情が胸に生まれた。
「でも、せめて、謝りたい……」
嫉妬と言うには湿っぽく、羨望と言うには浅い思いが、縁の心を埋めた。そのヤヒコというガキが、どうやら薫からまた別の愛情を注がれているのはかろうじて理解した。謝りたいと涙声で言った薫を、縁は黙って見つめた。
(なぜ俺達はこうなれなかったんだろう)
仕方なかったのだと既に受け入れている。自分は子供だった。姉もまた弱い人だった。だがもはや姉と対話することも叶わない縁は、姉の気持ちを推し量るしかない。それでも、もし、薫のように打ち明けてくれていたら。
(そうか、俺は恨んでもいたんだな)
優しく微笑みかけてくれる姉は常に縁を支えてくれた。その笑顔だけで生きることができた。けれど、魂だけになった姉は、一つも言葉をかけてくれなかった。ただ胸の中にいるだけだった。それを、ただ微笑んでくれるだけでいいのだと無意識に己へ言い聞かせてきた。まだ未熟さが残っていた頃、戦場で死体から武器と金目の物を漁っていると、運悪く同じ目的の徒党と鉢合わせた。何が癇に触れたのかも覚えていないが、逃げても逃げても追いかけられ半殺しの目に遭った。最後に吐きかけられた唾の生温かも鮮明に覚えている。その時胸に浮かんだのも姉の微笑んだ姿だった。やさしい姉の無残な死を思い出せば痛みも消えた。急ごしらえの隠れ家で傷が熱を持ち朦朧とする中、姉の声を聞きたいと強く願った。ただ声をかけてくれるだけで良かった。けれど姉は変わらず微笑むだけだった。忌まわしく思った、屍人形のような目をして、傷だらけの自分に微笑むだけだった。
「……そのガキがお前を恨んでいても帰りたいか?」
労るように尋ねてみても、薫には意図が全く伝わらなかった。
「うらむ?」
少し首を傾げ、しばし間を置いてから、小声で言った。
「実は生きてました、なんてひょっこり出て行ったら、あの子びっくりするでしょうね。それから、私が生きていてよかったって、よろこんでくれる。剣心を追い詰めてしまった私が生きていてよかったって……」
次第に表情が沈んでいく。はきはきと喋る薫の方がまだ好ましかったが、こうやって自分を責め続けてしまう弱さもまた薫であった。けして頭は悪くないのに、なぜか己の価値を低く見積もるところがある。それはまだ所以が読めなかったが、付け入る隙でもあった。
「言っただろう、抜刀斎は死んだ」
薫はゆるゆると首を振った。その瞳は諦念の色が浮かび上がっている。一等星のような光が薄れていくのが嬉しくてたまらなかった。いくら時間をかけてもいい。薫が何度も帰りたいと繰り返した場所は既に喪われているのだと気付くのを待った。
思えば自分が家への執着を失くしたのも姉がいなくなってからだ。父親に姉の最期を伝えるために歩き通しで帰り着いたのに、姉がいない家は色褪せていて、もはや自分の居場所ではなくなっていた。こんなものか、と思った。大切だと思っていたものが維新という名目の野分に蹂躙されるのを眺めながら、こんなにも簡単に失われるものなのだと幼い縁は悟った。
「それでも帰りたいのか」
目を瞑った薫が僅かな間を置いてから目蓋を開けたとき、光はまだ失われていなかった。
「ええ。謝らなきゃいけないから」
(損な性分だな)
善を是と教えられながら育てられたのだろう。正道を歩む以外の生き方を知らずにいるのは選択肢を狭めるだけだ。
天から注がれる陽光を当たり前に受け取り枝葉を伸ばす若木は、守る者がいなければ容易くへし折られてしまう。
(助けてやれるのは俺しかいない)
「ひとつ聞くが」
「なに?」
「仮に東京に戻ったとして、お前が幸せになれないとわかっているか」
重く頷いた薫が、いっそ哀れだった。
昔書物で覚えた異国の神は自らを磔にする木組みを背負って長い山道を登ったという。手を差し伸べてやらなければ、薫が辛苦に晒されるのは目に見えていた。
「もちろんわかってるわ。みんなを悲しませてしまった責任は―― 」
「やはりな。お前は気付いてもいない」
薫をこの世に溢れる醜悪に晒したくない。人は―― もちろん自分も含めてだが―― 簡単に憎む。やり場のない怒りの矛先を都合良くぶつけられる存在に容赦なく向ける。生きる手段として選んでしまう。
縁こそ薫に尋ねたかった。
(何故俺を恨まない)
薫を殺したのは他でもない縁だ。これから殺してやる抜刀斎も含めれば、憎悪を自分に向ける方がよほど道理が通る。
(だがこいつには無理だ)
姉を救えなかった無力なガキを一瞬の躊躇いなく庇い、敵である自分の幸せを思ってしまう心優しい娘が、恨むことで生きる力を得られるとは到底思えなかった。そういう薫だからこそ、縁は必要としていた。
(俺だけが守ってやれる)
乾風に震えないよう、徒に枝を折られないよう、手の中で庇ってやらなければ死んでしまうような小さな体を見下ろしながら、縁は努めて要点だけを述べた。
「そのヤヒコというガキがそれほど大事ならここにいろ」
「確かに謝りたいという私の気持ちは自分勝手でしかないわ」
「そうだな」
「今まで通りなんて望んだりもしない。弥彦が一人前になったら、どんなにかかってもいいから剣心を探しだしてみせる。それ以外みんなに償える方法がないから」
「で? 野垂れ死んだ死体を弔ってやるというのか」
「いいえ生きてる。剣心はきっと生きてる」
「お前、本当にわかっていないんだな」
正気の薫は物怖じせず喋り、自分を律するだけの強さもあった。
だが縁は知っている。ひとりがこわいと涙し、罪悪感を背負いきれずに悪夢に苦しみ、自分を責めることを繰り返してしまう、心の弱さがあると。そういう薫に抱く庇護欲は今だから持てるものだった。取り返しの付かない間違いは二度と犯さない。
「いいだろう。俺には証明する術がなくお前にも確かめる方法がない。抜刀斎はまだどこかで生にしがみついてるかもな。その上でお前がまだ理解していないことを教えてやる」
薫が怯えるのが手に取るようにわかった。半ばは察しているのだろう。だが邪魔な物は薫が自ら捨てなければ意味が無い。目を逸らそうとするのを鋭く睨む。可哀想ではあるが必要な禊ぎだ。
「そのガキが大事なら」
(大事ならどうして俺を選んでくれなかったんだよ)
物言わぬ姉に問いかけるのも何度目か覚えていない。姉は何も応えてくれない。
「二度と目の前に現れてやるな。お前が戻ったところで抜刀斎が消えた事実は変わらない。お前を見る度に抜刀斎が消えたと思い知らせるのが酷だとなぜわからない」
可笑しくなるほどわかりやすく薫の瞳から光が消えた。
「それでも帰りたいならすぐに連絡船を呼び寄せお前を送り届けてやる」
わざと口調を変えながらまた少し薫から離れる。薫が邪魔な物を捨てるまではけして抱きしめてやらない。
顔色は紙のように白く、小さな体は小刻みに震えている。それでも首を振った。全てが終われば東京に返すという最初の口約束を、薫自身が拒んだ。
縁は満足だった。何も疑わずに言葉通りに受け取るほど、薫が自分を信じている証明がなされたからだ。
(恨むはずがない)
姉が生きて帰ってきてくれたなら諸手を広げて受け入れられる。仇を討つために何人殺していたって構わない。姉以上に大切な人はいないというのに。薫が言うガキも自分と同類だろうと予想できた。よくよく思い出せば、あのガキは昔の自分にどこか似通っていて、縁を僅かに苛立たせたのだ。
「あなたの、言うとおりだわ」
真珠の涙が床に落ちる。打ちひしがれ涙する薫に、つい手を伸ばしたくなるのを堪える。薫が泣く姿は流石に胸が痛んだ。仕方ない。泣き止むまで抱いていてやるのが自分の役目だったのだ。
「私は、いないほうが、いい」
(上出来だ)
よくよく気を付けなければ口元が笑い歪むところだ。薫がとうとう自ら捨てる決意をしたのを、頭を撫でながら褒めちぎってやりたいくらい気分が良かった。
「怯えなくていい」
ぼんやりと見上げてくる瞳は涙で濡れ、屍人形とは比べ物にならないほど美しい。
「俺が傍にいてやる」
少し手を広げ、薫がいつでも逃げ込んでこれるよう用意する。深い傷を癒してやれるのは自分以外にいない。
だが縁の予想に反して、薫は健気に涙を拭き、毅然と言い切った。
「怯えてなんかいないわ。ちょっと前に戻っただけだもの。ただそれだけ。ちゃんと受けとめなきゃね」
(へえ)
縁は思わず感心してしまった。明らかに虚勢ではあるが、正気でいればここまで抵抗出来るとは思いもしなかった。
(叩き折るしかないか)
若干憂鬱な気分で腕を体の横に戻した。薫の強さは賞賛に値する。出来れば残しておきたかった。誰もが憧れを抱く一等星を自分だけが胸に抱いてやれる稚気めいた欲求が疼いて仕方ない。どう誘導すれば残しておけるだろう。
「それじゃあ申し訳ないけど物資のついででいいから東京以外に運んで―― 」
「嫌だ」
俺は意思とは関係なく薫の手首を掴んでいた。細い骨が軋む感触が伝わってくる。骨を折らずに済んだのは薫への執着が縁の中にあるからだった。でなければこんな細い骨など粉々に砕けていただろう。
「どこにも行かせない。誓ったんだ、俺は薫を一人にはしない。片端になろうと片目を失おうと必ず傍にいると」
―― どうしたら、あなたは、しあわせになれるの?
あの時の薫が頭に焼き付いている。薫だけが目を真っ直ぐに見て、なんの偽りもなく案じ、泣いてくれた。
(俺のものなのにどこまで邪魔をすれば気が済むんだ)
可能ならすぐにでもあの男を殺してやりたかった。わざわざ説いてやる手緩いやり方などしていられない。首を切り落とし地獄へ送ってやる。
「絶対に薫を一人にはしない」
「そんな、そんなの無理だわ」
(二度と間違わない、どんな代償を払っても今度こそ守ってみせる)
「どんなに気を付けていたって、いつ病になるかわからない、事故に遭うかもしれない。絶対になんて」
「なら不死の秘薬を手に入れてでも薫をひとりにはしない」
(どんな手でも使う、死なせたりしない、殺せばいいんだ、俺が先に殺してやる)
どこか寂しそうに、薫が口元をほんの少し緩めた。縁の言葉を冗談だと思ったのかもしれない。だが縁は半分以上本気で言っている。険しい山脈を七日七晩かけ越えた先に百年かけて実をつける木があり、食べれば不死になれるという与太話さえ本気にしていた。
「でもわたし、縁に、なにもしてあげられないの。だから…っいたい、えに…」
鼓膜の中で気泡が弾け、音が戻った。
(なんだ、これ。手? 薫の?)
握りしめているのが薫の手首だとようやく気付く。自分より一回り細い手首を解放してやりながら、縁は自分が腹立たしくてならなかった。こんな脆弱な骨を砕くなどごく容易い。よく握りつぶさなかったものだ。血の流れを元に戻そうと青黒く鬱血した手首をさすってやる。いくらさすってやっても痕が消えない。薫に痛みを与えてしまった後悔があとからあとからわいてくる。怒りが膨らみ意思が消えてしまっていた。大事に、とても大切に思っているのに、傷付けてしまった。小さな手を撫で続けながら、縁は薫を怒りに巻き込んでしまったのをしきりに悔やんだ。
「……ただ傍にいてくれるだけでいいんだ」
(傷付けたかったわけじゃない)
情勢が目まぐるしく変化し、その大渦に否応なしに巻き込まれた。数多の人間が飲まれる中でも、無力な子供は最も惨めな位置に置かれるしかない。大切なものを取り上げられても取り返す手立てすら無い。生きる為に恨むしかなかった。恨み憎むことで腐った食べ物も耐えられるようになった。けれど得られたのは自分を静かに見つめる姉だけだった。
「…………」
ふと思いついて、薫の首に触れてみる。すべらかな手触りの下には想像通りの脆い気道がある。静かな息遣いと血脈の動きがよくわかった。薫は生きている。なんてあたたかいんだろう。このあたたかさを失いたくない。
薫が言っていた。いつ病に罹るかわからない。事故に遭う可能性もある。普段なら一笑に付していたろう。そんなものは杞憂だ。どんなものからだって守ってやれると。
だが、他ならぬ自分が薫を傷付けた。弱っている体だってまだ癒やせないでいる。もし、手の中にあるあたたかさを、己の間違いで、また失ってしまったら。
「置き去りにされるのは、もうたくさんだ」
炎の中に置かれた小さな体を想像するだけで気が狂いそうだ。炎が肌を焼き骨を剥き出しにしていく。しあわせになってほしいと泣いてくれた瞳が溶けて屍人形のように落ち窪んでいく。髪の焼ける匂いが鼻腔にこびりつく。
耐えがたい無力感が重くて忌々しい。細い首から手を離せば、薫の体温はたちまち消えてしまう。失うのは、きっと、これと同じだ。
ふいに甘い匂いが鼻先をかすめた。薫の、髪の匂い。
ぼうっとしたのは束の間だった。背丈が足りないので一生懸命に爪先を立てているのが目に入る。小さな爪がぷるぷると震えていて、いかにも危うい。細い腕が首に掛かってから、やっと薫が自分を抱きしめようとしているのに気付いた。誰かに抱きしめられた記憶は無い。幼い頃は姉があやしたりおぶってくれたりしただろうが、物心ついた頃には控えめに頬に触れてくれるだけだった。それだけで良かった。姉の白い手から伝わってくる体温、香る白梅香、慈しんでくれるのが充分わかったからだ。
なら、誰かに抱きしめられるのは、どんな気分になるのだろう。
とりあえず危なっかしい薫の背中に腕を回して支えてやる。縁の支えを得て薫は体勢を固めることが出来たらしく、励ますように肩の下を撫でてくれた。小さな手が、何度もこうしたことがあるように、やさしく縁の背を撫で続けた。
(うそだろ)
勝手に体から力が抜けていく。虚脱感とは全然違う。自分より一回りは小さい体なのに、日なたで温められた水の中にいるように心地良い。口の中に不味い塩辛さを感じ、縁は慌てて自分の顔に触れた。頬が半端に濡れている。いつの間に泣いていたのだろう。薫はこの涙を見ただろうか。頬が燃えるように熱くなる。その気恥ずかしさすら、体全体で抱きしめてもらう心地良さにかき消されてしまった。この感覚を言い表す言葉を縁は持ち合わせていなかった。もしかしたら薫とキスするより気持ちいいかもしれない。
(…いや、比べないとわからないな)
我ながら実に馬鹿らしい考えを頭の中から追い払う。
ともかく、薫について一つ理解できた。あれほど抱擁を求めたのは、薫がこの心地よさを知っていたからだ。自分のものではない体温が寄り添ってくれる安心感を求めていたのだ。最初は縋り付けるのが自分しかいなかった。だが何日経っても薫は抱擁を求めた。他でもない縁に。
(俺は手に入れていたんだ)
眉間が火種のような熱さを持ち、鼻の奥が絞られるように痛む。頬に沿って落ちる涙をそのままにしながら、縁は胸に溢れる思いを口にした。
「約束する、俺がずっと傍にいる。けして薫を一人にしない」
抱きしめてやると、やわらかい体が溶けるようにもたれかかってくる。
「うん」
薫の吐息が熱い。こすりつけてくる頬も熱っぽい。薫の喜びもまた熱になっているのだ。
「わたし、がんばってみるから。役に立てるよう、がんばるから」
役に立つ立たないなどどうでもいい。薫の健気なただ言葉が嬉しかった。
「別に頑張らなくていい」
傍にいてくれるだけでよかった。薫がいれば恨みや憎しみを捨てられるかもしれない。きっと、捨てた先にあるのは、薫をしあわせにしたいという純粋な想いだ。
「薫がいれば俺はしあわせになれる。薫が俺をしあわせにしてくれるんだ」
薫の手首にはまだ痕が残っている。戒めとしてしっかり目に焼き付けた。二度と同じ間違いは繰り返さない。
腕の中にいる薫の髪にキスしてから、縁は最も必要なことを確かめた。
「お前も約束してほしい」
「やくそく?」
もぞもぞと動く薫の顔をぐっと押さえる。幼い子供同士がするような「約束」が少し気恥ずかしかったのだ。
「薫には笑っていてほしいんだ。頼めるか」
ふふっと薫のが笑うのがわかった。からかう色も愛想笑いの気配も無い、愛らしい笑い声だった。
「うん、わかった」
もはや自分は時代のうねりに巻き込まれるだけの無力な子供ではなかった。薫を苦しめるだけの存在から守ってやれる。二人で穏やかに暮らすのだ。心を乱す音のない場所で同じ夢を見ながら眠ろう。しあわせそうに笑う薫と過ごす時間はどれほど幸福なのだろう。想像するだけで胸が弾む。
(お前と一緒に生きたい)
だが、それはこの小さな島国ではない。遠からず必ず戦争が起こる。十一年前の国を二分した戦い以上になるのが目に見えていた。やさしい薫が下らない些事に心を痛めるなどあってはならない。まずこの島国を離れる準備する必要があった。手配は大方済んでいるが、念には念を入れたほうがいい。
弱っている薫を安全に守れる場所へ連れていき、自分の手で癒してやるのだ。
(支度は俺一人で済ませればいい)
膝裏に手を差し入れて抱き上げると、目線が近くなった薫は、笑いながら改めて縁を抱きしめてくれた。あたたかい。
縁も微笑み、薫の額に軽くキスを落とすと、光が入らない部屋に戻った。
ベランダへ続く戸から差し込む日は角度がついて部屋の奥まで届いていた。色味のついた光の中で薫は外にある何かに見入っている。書き終えた書信をたたむと、机に放るように置いた。肩を鳴らしてから薫が何を見ているのかと隣に立つ。なんのことはない、沖に停泊している連絡船を薫は見つめていた。明日、自分達も乗る船へ荷運び用の小舟が戻っていくところだ。
「あの船、ここからだとけっこう小さく見えるのよね」
「外車式蒸気船としては並だろう。乗り心地も最悪だから覚悟しておけよ」
くすくすと薫がおかしそうに笑う。
「ねえ、わたしあの船を乗っ取ろうしたの。縁を人質にして東京へ向かえっておどせばなんとかなるかもって。今考えるとちょっと無茶だったなあ」
つられて縁もくつくつと笑った。
「無謀の間違いだろ。並といっても八十人は乗れる」
「そんなに? ひどい、数の暴力だわ。見かけはあんなに小さいのに」
笑ったと思えば子供のようにへそを曲げだす。ころころとよく変わる表情こそ薫の地なのだろう。ただ見ているだけでも飽きない様子に、縁はまぶしそうに目を細めた。
姉が笑ってくれなくなった時、自分の元へ乗り込んできた薫を力尽くで殺そうとしたのに出来なかった。縁は間違わなかったことに心底安堵する。こうして薫と並んで話している時間がこれほど幸福に満ちているなど想像すら出来なかった。
それにしても、船を奪うつもりだったとは。
「あんな棒一本で俺をどうにか出来るわけないだろ。せめてマシな武器を選べなかったのか」
「ん…ちょっとは悪いかなと思ったけど物色させてもらったわよ。包丁はあったけど、一体多数ではどうやっても不利だわ。だからせめて振り回せるものをって―― 」
「刀を扱えるのにか」
薫は縁を振り仰ぎ、びっくりしたように瞳を大きくした。
「どうしてわかるの?」
「下段から構えただろ。初めに低く構えるのは刀の重さに馴染んでいるからだ。だが人を斬った経験はない。我流の俺に言われたくないだろうが、どう見てもお上品すぎたからな」
薫は珍しく怒ったりせず、縁の指摘を噛みしめるように黙り込んでから、ふっとかすかに息をついた。
「そっか。今まで誰にも指摘されたことなかったんだけどなあ」
また遠くの船に目を移しながら、ぽつりぽつりと薫は語った。
「お父さんから教わったの。夜中だったり、明け方前に、少しずつ、誰もいないところで。うちの流派とは相容れないのにどうしてだろうって嫌になったこともあったなあ。知るのと使うのとでは違うと覚えるんだって、何度も言われて」
隣にいる縁に語るでもなく、己の記憶を見直すように薫は続ける。
「やっと使うべき時がきたのに、それを止めたのもお父さんだった。お父さんを行かせるくらいならわたしが行こうって決めたのに、ならどこでもいいから斬ってみろって。でも手が震えて、あんなに鍛錬したのに、まともに刀を握ることも出来なかった。わたしはそれでいいんだって、どうか生涯その恐れを忘れずにいてくれって。それから、それから……」
硝子戸に寄りかかった薫に残り火の色をした光がかかる。まぶしいのかしきりにまばたきをしている。話を締めずに半端に黙ってしまったのは薫自身が捨てた物を思い出してしまったからだろう。縁はなるべくやさしく聞こえるように言ってやった。
「今度は誰も脅さなくてもいい。薫が望むならすぐに東京へ針路も変えてやる。まだ間に合うぞ、どうする?」
硝子に映った薫が辛そうに目を伏せるのが映っている。自分の言葉で簡単に薫の気持ちを動かせるのが楽しくて心にも無いことを言ってしまうのだが、いい加減に悪癖は改めたほうがいいだろう。
「いいや、無理だな。いくら薫の頼みでも聞けないことはある。俺だって二度と東京には行きたくない」
深々と溜息をつきながら薫の肩を抱く。
「大体、薫に人を脅せるはずがない。似合わない真似はやめろ。どうしても許せない奴がいたら俺に頼めばいい。そういう手合いにはうんざりするほど慣れてるからな」
「もし頼んだらどうなるの?」
「大したことはしない。ごく穏便にお引き取り願うだけだ。そいつが薫を不愉快にさせたことを心底後悔しようがどうだっていい」
だろう? と顔を覗き込むと、薫は困ったように眉根を寄せた。
「気のせいだったらいいんだけど、すごく物騒なこと言ってない?」
「どこが。これでも商売やってる身だ、愛想の良さがなきゃやってられない世界だぞ」
「そうかしら、ちょっと想像できないわね。いい商売人っていつもにこにこしてて笑顔を見るとうれしくな―― 」
薫が捨てたはずの邪魔な物の残滓に触れようとしているのを察し、すぐに抱きしめてやる。こうしてやると薫が何の抵抗もできなくなると縁はよく知っていた。深く抱かれた薫が頬を寄せ、体を預けてくるのがわかる。
「……あの船は、どこへ行くの?」
僅かな不安が声に混じっている。少し考えを巡らせた縁は、薫を横抱きにすると、黒檀の椅子に腰掛けた。膝の間に薫を座らせてから、机の隅に置いてあった航海図を見やすい位置に広げてやる。大陸全土と小さな島国近郊の航海図は折りじわが目立ち、国境と所有者が何度も描き直され、おまけに走り書きもいくつもある。これも持ち歩く必要がなくなって放り出しておいたものだ。薫が興味深げに覗き込んでいるのを、縁も黙って眺めた。
「ここが東京でこっちが上海、で合ってる?」
細い指が小さな島と大陸の貿易拠点港を正確に示した。
「へえ、よくお勉強してるな」
「失礼ね、ちゃんとわかるわよ、新聞にも載ってたもの。やっぱり上海に行く…戻るの?」
「さあな」
「さあなって…ずいぶん他人事みたいな言い方するのね」
薫が気を悪くしているのはわかっていたが、それより喜びが勝っていた。他人同士ならこんな言い方はしない。薫を手に入れた実感は蜜を固めた飴を舌で転がすよりも甘かった。
「ちょっと、ちゃんと聞いてる?」
全部聞いてるさ。息遣いも、脈動も、縁と呼んでくれる声も。
「どこへ行くかは本当にまだ決めていないんだ。少なくとも上海にはもう戻らない、組織ごと譲る話はとっくについてるからな。後釜に座った奴が適当にやるさ。それからこれも」
書き上げたばかりの書信に手を伸ばすと、薫もつられて目で追った。
四通の書信に宛名は無い。縁がきれいさっぱり忘れてしまったからだ。身辺調査の資料は残っているから、部下が届けるのに不足はない。
「ヤヒコとかいうガキの後見を依頼する手紙だ。金と一緒に送る。あの道場にも成人するまでに足りるだけの金を送る手筈も済んでるから心配するな」
「どうして四通もあるの?」
「薫と関わりの深い相手にそれぞれ送っておけばより安心できるだろ。中を改めておくか?」
「……ううん、だいじょうぶ」
薫は書信のひとつひとつに思いを託すようそっと撫でた。
「ごめ…ありがとう。あの子のことを気にかけてくれて」
「いいさ。俺にはこれくらいしかしてやれないからな」
(礼など要らない。心残りを全て潰さなければ薫は何十年経とうと気にかけてしまうだろう?)
抜刀斎の身辺調査がこんな形で役に立つとは思ってもみなかったが、自身が描いた筋書きがもたらした成果に縁は満足していた。薫の瞳に全く疑う色がないのも気分を良くした。ほどいている薫の髪をくるくると指に巻き付ける。
「まずはお前がゆっくり休める場所に行く」
薫の衰弱は止まったが、体は元に戻っていなかった。深く交わって合間におしゃべりや食事を挟み、縁が望んだとおりの笑顔を見せてくれるようになったが、軽くなった体が戻らない。この島が東京に近すぎるせいだろうと縁は考えている。先程のように残滓に触れる度にやさしい薫は苦痛を受ける。この島では気を紛らわすものも少ない。澄んだ空気、目を奪われるような景色、好奇心を引かれる書物、より滋養がある上手い食事。足りない物は数え切れないほどある。この島では与えられるものが足りなかった。
だが縁が案じるほどに、薫はあまり自分の体の状態をわかっていなかった。
「そうかなあ。わりと元気だと思うんだけど」
と、のんきに言ったりする。
「その根拠の無い自信はどこからくるんだよ」
「だってちゃんとお腹も空くし。夢も見なくなったのよ、声だってもう聞こえない」
「ならどうしてこんなに手が冷たいんだ」
しとやかに重ねられた手を取り上げる。こうして膝の間にいても、薫は姿勢良く座る。薫もまたそう躾けられて育ったのだろう。薫の体調が戻り次第、父母の話を聞こうと縁は決めている。大切に育てられたはずの薫が、弱い心を抑えて強くあろうと課している原因を知りたかった。自分の手でしがらみから解放してやりたい。
「そんなに冷たいかなぁ」
「ああ、冷え切ってる。こんな状態じゃあ辛いだろう、かわいそうに」
顔を寄せると唇に近いところの頬にキスする。薫の頬がほんのりと赤みを帯びるのを眺めながら、もう一度キスしようとすると、薫がふいと顔を逸らした。
「なんだよ。まさか焦らしてるのか」
喉の奥で笑いながら尋ねても薫は顔を上げようとしない。
「だってその、ほら、まだ明るいじゃない?」
「放っておいてもじきに暗くなる」
「それはわかってるけど、でも、ここだと、えっとね、いやじゃないの、困る、というか」
らしくない歯切れの悪さの理由が縁には読めている。何十回と交わっても薫は羞恥心を捨てきれないらしい。
慣れるのを待つしかない。待つ時間すら楽しい。
「嫌だ」
踵を細い足首に引っかけて脚を広げさせる。慣れた手つきでバスローブの襟元に手を差し込みやわらかな左側の乳房を握りしめた。薫が息を呑むのが聞こえる。
「先に血を送るほうが先だ。ここから―― 」
鼓動を掌で感じながら、薬指で胸と肋骨をなぞると薫の鼓動が一際高まるのがわかる。おとがいを持ち上げてキスしてやると、小さな体から力がみるみる抜けていくのがよくわかる。涙ぐんだ瞳が自分を求めていて、縁を腹の底から昂ぶらせた。
「俺が全身に血を送ってやる。俺が温めてやる」
どこかぼんやりしながら、薫は小さく頷いた。
「う、ん…」
掌の下で確かに温かな血を感じる。自分が薫を生かしているという感覚が総身に行き届く。快い陶酔感に頭の芯が酔ったような心地だ。縁はくまなく薫の肌に触れていった。細い指、目立つほど白い二の腕の内側や、肋骨より下のつるりとした腹。血が巡り、なめらかな背中も温まっていくのを感じると同時に、呼吸が熱くなっていく。この小さな体を気の済むまで犯してやらなければ、この熱は発散できない。そういうとき、ふっと、縁は思うことがある。
(いつからこれほど溺れるようになった)
薫が痛みかすかな喘ぎ声をもらすまでうなじの柔らかい部分や肩口に赤い印がつくまで吸い付く。縁が触れると想像通りの反応を返してくる薫に視線を注ぎながら、いつも同じ思いに戻っていく。
(溺れようが構わない)
何百、何千回と薫を抱こうが、今より深く溺れていく自分の姿が容易に浮かぶ。それほどこの脆弱な命を己だけが生かせる悦びは何にも代えがたい。
「えにし、えにし……」
名前を呼んでくれる薫の擦れた声が、体を更に熱くさせた。薫は心から欲していたものをくれる。二度と得られないものが、今、腕の中にある。分別のない若造のように溺れようが、構わない。
(俺のものだ)
広げさせた脚の付け根に触れると、薫の体が僅かに跳ねた。西日よりも耳を赤くしながら俯いてしまう。その様子がおかしくて笑い出したいのを堪えながら、縁は甘く囁いた。
感覚が夜明けを報せた。
かろうじて腕が見えるほどの暗い部屋で自分にもたれて眠る薫の姿勢をそっと直してやりながら縁は起き上がった。
部屋の窓は外からも板で塞いである。どんな音も薫に聞かせないようにするよう施させた。その分静かにはなったが、昼日中でも夜と変わらないほど暗闇が増し、明かりがなければほとんど何も見えない。だが縁の目には薫の姿が問題なく見えるのでさしたる不便もなかった。薫が起きているときだけ洋燈を灯せばいいし、天候がよければ赤樫の下で過ごした。薫は「ひなたぼっこ」がいたく気に入ったようで、楽しそうにとりとめのない話をしたり、縁にもたれて昼寝もした。「ひなたぼっこ」は薫を休ませてやれる場所の条件としてとっくに入っている。
身支度を調えた縁は音も立てずに寝室を出て、ベランダのある部屋の椅子に不機嫌を隠さず腰掛けた。
『お、おはようござい』
『手短に済ませろ』
薫と分け合っていた快い倦怠感を中断させられ縁は苛立っていた。
小さく畏まりながらシャオは件の場所に危険が無いと確認できたこと、安全なルートの確保ができたことを報告した。その他の細々とした準備は彼の兄が滞りなく整えていると話したところで、シャオは吃音の口を一度閉じた。
『黒星の動きは』
縁の不機嫌を増長させないようシャオは殊勝に報告を再開した。
『に、兄ちゃんは、船が二隻、この島に向かっていると。ケイサツの船だと言っていました。対応のためにここへ黒星が駆け込んでくるはずです。ど、どうすればいいですか?』
目の周りに青痣を残しているシャオに視線をやってから、縁はどう動くかを必要な分だけ命じた。
『邸の警備は解いていい。黒星も放っておけ、俺があしらっておく。昼前に船は着くだろう。それまでは』
くくっと腹の底でつい笑ってしまった。忠実だが一から十まで命令されないと動けない部下は、薫を仙女だと思い込み崇めている思い出したのだ。
『仙女の警護をしろ。特に黒星共の目に触れさせるな。目が覚めたら俺がいなくて慌てるだろうが「案内します」と言えば良い。何度か言えば仙女も納得する。用意してあるものに着替えさせ、浜辺まで案内をしてやれ。近道は通るなよ。必ず整えられた道を使え。転んだりしないよう気を配るのを忘れるな。以後も仙女がどんな状態だろうと警護を続けろ。俺の所用が終わるまで怪我一つさせるな』
『は、はい。「アンナイシマス」、「アンナイシマス」「アンナイシマス」。こ、これで間違ってませんか?』
『ああ』
命令を全て伝え終えると、出て行っていいと手で軽く払う仕草をする。
だがシャオは珍しく命令に従わず青白い面持ちで棒立ちになっている。縁は面倒そうに口を開いた。
『不足があったか』
『ち、ち、違うんです! 仙女様をお一人にしてほんとうにいいんですか? ボスがいないとわ、わかったら怒って天に帰ってしまいませんか?』
縁はぽかんとし、出し抜けに笑い出した。腹を抱えてひとしきり笑うと顔に手をやり眦 に溜まった涙を取る。いきなり笑い出したボスにすっかり動転しているシャオに、部下の誰一人として向けたことのない笑い顔で言った。
『心配しなくていい』
黒檀の椅子に深く座り直し硝子戸の向こうに目をやる。夜明けの鮮明な明るさと共に暑熱を現す真白い雲がはっきりと見える。一日中晴れるだろう。仙女が旅立つのに相応しい日和だ。
『必ず俺のところに来る。俺があいつの帰る場所だからだ。ただ案内してやればいい』
それ以上の説明はいらなかった。縁の命令を受けるとシャオは膝を折り深々と頭を下げた。
過剰に慌ただしくしていたのは黒星だけだった。縁は悠然と座り、決着の時間が来るのを待つ以外にすることもない。煩わしかったのは抜刀斎の銅鑼声ぐらいだった。窓を塞いでおかなければ安らかに眠っている薫を驚かせてしまっていただろう。漆喰壁と分厚い扉で耳障りな声を遮った邸に、縁は胸中で役に立ったことを褒めてやった。縁が作り上げた、けして薫をおびやかすことのない揺り籠を無理に揺さぶろうとする者は、何人だろうと赦しはしない。
仕事の面だけでは有能だったが地頭がすこぶる悪い黒星が滑稽な一人芝居のように激昂し出て行くと、やっといくらか静かになった。
(姉さん)
目を瞑れば微笑んでいない姉がすぐに浮かぶ。姉が黙ってこちらを見つめても、もはや動揺すらしなくなった自分の薄情さはきっと伝わっているだろう。少しだけ申し訳なかった。
(姉さん。俺達出かけるんだ。行き先はいくつか考えてあるんだけど、薫がまだ本調子じゃないからのんびり決めるよ。そうだな、とにかく日当たりのいいところがいい。南か西か…まあ、北じゃないことだけは確かかな。姉さんはどうする? …そうか。わかった、構わないよ。じゃあいってくる)
倭刀を手に立ち上がると、廊下を挟んだ自分達の寝室の扉の前でシャオが仁王立ちしていた。その向こうからは人の動く気配は感じられない。薫が目を覚ましたとき、自分がいなくて泣き出さないかだけが心配だった。
(今日限りだ)
まだ眠っている薫に語りかける。
(今日だけだ。これからは薫を一人にしない。なんなら昼過ぎまで寝ていればいい。だがそうもいかないか。お前ときたら寝起きは悪いのにやけに感覚が鋭いからな。まったく、とんだ仙女様がいたものだ)
邸から出ると遠い水平線から運ばれてくる微風が縁の前髪を揺らした。浜辺への道を歩きながら、途中で小粒の石を数個拾っておく。土産にもならないただの石塊だ。もちろん遊ぶために拾ったわけではない。
潮の匂いが近づいてきた頃、息巻いて出て行った黒星にぶつかってきた。タイミングが良い。手間が省けた。
「ボ、ボス、これは誤かガァァアアア!!!」
年齢の割に薄い髪を鷲掴み、軽く押して顎の骨を膝先で潰す。みっともない叫び声を上げたから運良く舌を噛まずに済んだろう。そのまま歩く続きのように踵で足の甲も踏みつけておく。両足の甲を砕かれ立てなくなった黒星の襟首を掴み、何事もなかったように縁は松林を抜け浜辺へと歩み出た。
小舟に腰掛けた抜刀斎が目に入る。
(こいつ、本当に生きてやがった)
軽蔑の眼差しを向けずにいられない。姉を殺め、薫までも死なせるところだった男に虫酸が走った。倭刀の鞘がみしみしと鳴る。縁は深く息を吸い肺の中の熱い空気を入れかえた。暑熱が残っているせいで生温い空気だったが、溢れ出る殺意は体の内側に戻っていく。
「いち、にい、さん、しい……六人か。少し増えたな」
無様に倒れている大男共を除いて六人がそこにいた。内、女は二人。確認が済むと、縁は引き摺ってきた黒星を警官の格好をした男の足元に放り投げる。
「やるよ、それ」
明るい声で言うと、警官の格好をした男の鋭い目付きを受け止めた。
「警察が欲しがっている情報はそれに全て吐かせればいい。煉獄の取引仲介役、上客のリスト、政府の血を吸ってる内側の壁蝨まで把握してる。ここから松林を右に抜ければ下屋敷がある。売り捌く予定だった銃火器火薬類刀杖がなんでもござるだ。土産に一本くらいくすねてもわかりっこないぜ」
縁の挑発に乗ってこず警官の男は煙草を取り出しくゆらせはじめた。もぞもぞと蠢く黒星の腕を履で押さえたのを見て、縁はささやかに愛想笑いを返した。完全に抜刀斎の味方でないとわかれば動きの警戒を幾分か下げても対処できる。
「取り調べは喋れる奴から始める」
吐き出された紫煙と同時に一点の殺意が向かってきた。
「とっとと私闘など終えろ。生憎俺は気が長いと褒められた覚えがない」
「ああ、こちらも早仕舞いするつもりだ。さほど待たせない」
びしりと竹刀の先が縁を差した。やや視線を下げるとずたぼろの汚いガキが肩で息をしながら立っていた。
「ゴチャゴチャ喋ってるんじゃねェよ。貴様が話す相手はこっちだ!」
「…………」
「それから訂正してやるぜ、こっちは七人だ。その似合わねェ黒メガネのせいで数も満足にかぞえられねェのかよ」
「…………」
「はっ、俺は眼中に無しか。けどな、ここから先は貴様一人じゃ進ませねェ」
「…………」
「薫をどこに隠した、どこへやった! もし「もうこの世にはいません」なんて言ってみ―― 」
倭刀の鞘がぱきりとひび割れる。下から柄で突きガキの心臓を破裂させようとしたが手応えを得られず、縁は納めたままの倭刀をぐるりと振り回すだけに終わった。見覚えのあるチンピラがガキの衿を掴んで間合いの外に避難させている。
ガキがわざわざくれたせっかくの好機をふいにしてしまい、縁は落胆に肩を落とした。
「剣心に関わる奴は手当たり次第殺すってか。腐った本性すら隠さなくなったのかよ、黒メガネ」
「それを言うなら一体多数のほうがよほど卑怯だろ。いいからそのガキを渡せ。一度だけなら見逃してやる」
「一丁前に上から言うじゃねえか。主導者気取りも大概にしろよ、俺はわざわざてめぇを黙らせるのを待ってやっているんだぜ」
「ガキを渡せ」
「弥彦の言うとおりだな、黒メガネ。曇りすぎてて俺がはいそうですかと渡す奴かどうかの判断もつかねえのか」
品性を持たないチンピラと話すのは疲れる。早く茶番を終わらせて薫のところに戻りたい。縁は大きな溜息をついた。チンピラの首に浮かぶ青筋がぴくりと動く。
「俺は親切だから教えてやるぜ。てめぇを黙らせねえのは嬢ちゃんが何処にいるか吐かせるためだ。今すぐ答えるか血反吐と一緒に吐くか好きに選べよ。でなけりゃてめぇが泣き喚くまでそこの海に沈めてやる」
埒が明かないと判断した縁は帯に挟んでいた拾っておいた小石を掌に取り出した。ころころと転がし、海に向かって水平に投げる。二人が反応した。背の高い男は小娘の前に立って小太刀で石塊を弾いた。チンピラは箱を持つ女にぶつかる前に意外な早さで先回りし右手で石を掴んだ。
「っの野郎……女子供から狙うたあ根本から腐ってやがる」
チンピラの掌にじわりと血が浮かぶ。左脇に抱えられたガキはますます間合から離れてしまった。
「親切は期限切れだ。てめぇは土下座しようが腹切ろうが許さねえ!」
「バカ! まだあの子がどこにいるか確かめてないのよ!」
「わーってるよ、殺しやしねえ。ブッ潰すところで止めるさ」
二つしか使わなかったので、ごろごろした感触が邪魔な小石を砂の上に捨てる。ズボンで手に付いた汚れを払うと、青眼に構えているガキに目を向ける。怖じける様子がないのは僅かだが賞賛に値する。蛮勇に免じて縁は教えてやることにした。
「ガキだから理解できなくても仕方ないが、学ばせるのは大人の責務だからな。いいか、ガキ。死体は「何人」ではなく「何体」と数えるんだ。それから次馴れ馴れしく呼べばお前が「一体目」になる」
「こんの、意味わかんないこと言ってんじゃないわよ! 今すぐ薫さんを返さないと、んぐ」
小娘のきいきい声を優男が後ろ手で塞いだ。縁はもう石塊は捨てたというのに、体で射線を完全に切っている。
「……神谷薫が無事なのはわかっている。連れていないのは緋村に見せぬ為か逃げられぬよう拘束しているからだろう。白状しなくともお前の足跡を辿れば取り戻すのは容易い」
「それは俺を斃してからの話だろ。予言してやろうか? 俺を斃す、それから探す。アンタはこの順番を飛ばさない。絶対にな」
「……」
「もうもうもうもーあったまきた! 蒼紫様をアンタよばわりすんなこの黒メ、むぐ」
天から降り注ぐ陽光を白い砂が照り返している。多少荒れているが、罪人に死刑宣告をするのに相応しいように思えた。
抜刀斎は小舟に腰掛けたままでいる。このまま静観するつもりならそれもいいだろう。倭刀なら大人二人を貫くのに十二分に足りる。鞘を砂に落とすと、右手に刺さっていた鞘の破片と血も落ちた。何度か握り開いてみたがこれからはじめる処刑に支障をきたすほどでもない。滑らないよう服で拭っておく。左胸の辺りがべとりと血で汚れた。
(帰る前に着替えておかないとな)
また上着を忘れてきてしまっていた。あの赤樫の根元に置きっぱなしにでもしたのだろう。最近忘れ物が多い。自分の欠点を発見し、不可抗力だと縁は胸の中でぼやいた。集中していれば物を置き忘れることだってある。数歩前に出たところで、誰よりも早く縁は振り向いた。
「あーーーもう!」
邸から砂浜まで降りてくるのに疲れたのだろう。松に手を掛けた薫は手を膝に置き苦しそうな呼吸を繰り返している。
「一人で、どっかに行って、おどかすな! こっち、の気も、知らないで、下駄じゃ、歩くの、大変だったんだ、から」
想定よりかなり早かった。後ろの不要物を片付けるまで眠っていてくれるよう恃んでいたが、やはり自分がいないのに薫は気付いてしまった。呼吸を整え終えた薫が顔を上げる。
「あのねえ! 今度という今度は、本気で怒ったん―― 」
薫が自分を見た。違う、見ているのは左胸についた血だ。昼間も沈まない一等星の光がたちまち失われていく。酩酊したような足取りでふらふらと薫が近づいてきた。
「血が……あのときの……どうしよう、どうしよう、血が……」
縁がただの汚れだと説明するより先に歓声が響いた。
「薫!」「薫さん!」(糞ガキ共が!)
薫が不要物に気付いてしまった。立ち尽くした薫が一人一人を確かめるように呟く。
「……弥彦……左之助……恵さん……操ちゃん……みんな……」
抜刀斎の姿を認めると、薫の頬が俄雨に遭遇したように濡れた。
「けんしん」
それまで挑発してもガキを殺しかけても動かなかった抜刀斎が血相を変えて立ち上がった。薫は左胸を押さえ息も絶え絶えだ。喉にからまるような声で謝りはじめる。
「ごめんね、ごめん、ごめんなさい、わたしが逃げなかったから、ぜんぶわたしの」
それ以上聞いていられず縁は薫の口に布を当てた。これだけは忘れたりしなかった。万が一にも薫が泣き止めない状況に陥ってしまったときの保険のつもりでいたのに、こんな風に使うのは縁だって不本意だった。
意識が途切れる直前、薫の黒い瞳は縁の目を見た。確かに自分を見た。目蓋が落ちる僅かの間に薫は縁に尋ねようとしていた。
―― どうして?
くたりとした柔らかい体を抱き支えてやりながら薫の耳にだけ聞こえるよう囁く。
「これはお前が見た最後の悪夢だ。二度と見ることはない。苦しまなくていい。俺が悪夢を全て消してやるから……」
人は死にゆくとき聴覚だけが残る。そんな話を物の折に聞いたことがあった。自分の言葉が薫に届いているよう、縁は初めてなにかに祈った。姉でも天でも異国の神でもいい。どうか届けてくれ。薫が悪夢を苛まれないよう俺の声を届けてくれと奥歯が砕けかけるほど強く祈った。
激しい殺意を肌で感じ、縁は本能だけで薫を抱えたまま後ろに飛び退っていた。縁がいたところに抜刀斎が立っている。首に微かな痛みを感じた。逆刃刀で打ち据えようとしたのだろう。自分の首を狙ったのは万が一にも薫を傷付けないためだ。
「薫殿を返してもらう」
押し殺せない怒りが抜刀斎の声に滲んでいる。逆刃刀を顔の横で構えた抜刀斎がしつこく言い募る。
「薫殿を返せ、縁。そうすれば拙者も戦いに応じよう。断るならば次は左目を狙う」
抜刀斎の怒りが逆に縁を冷静にした。
(こいつは何故返せなどと言えるんだ? 薫が悪夢に苛まれる元凶が何故返せとほざいている?)
無言でいるのを拒絶だと判断したのか逆刃刀の切っ先が縁の左目を正確無比に狙っている。縁は一切それに構わず、砂地に倭刀を突き刺し、薫を腕に抱えてくるりと踵を返した。松林まで戻るとシャオは呼ぶまでもなく姿を現し、縁から恭しく仙女を受け取ると素早くその場を離れた。
「逃がさねェ! 薫を返しやがれこの野郎!」
「黙れよガキ」
薫を追いかけようとしたガキが金縛りになったようにぴたりと動きを止めた。縁は悠然と倭刀のところまで戻ると左手で引き抜いた。あのまま薫を追いかければ先に処刑しようと思ったが、死を嗅ぎ取れるだけの嗅覚はあるらしい。いいさ、どうせ二体目はあのガキになる。最後の死体になる男に目を向け、縁は冷笑を浮かべた。
「感謝するぜ抜刀斎。頭がすっかり冷えた。おかげで順番を間違えずに済んだ」
自分に対し、抜刀斎はまだ構えを解かないでいる。
「薫殿に何をした。あの瞳はどういうことだ。一体どこへ連れていった」
「貴様に答える必要はない。と言いたいが、貴様が追いつくのは少し難儀だから教えておいてやる。お前のいないどこよりも安全な場所だよ。俺が今からもっと安全にする」
「……」
「意味がわからないか? まあいい。ところで地獄の冒険は楽しかっただろう?」
「ああ。拙者に足りなかった全ての知見を得たよ」
「それはなにより。さあ、おしゃべりはここまでだ。時間が惜しい。安全な場所を作らなきゃならないからな」
自分には薫を苦しめる物を取り除いてやる使命がある。
抜刀斎から砂浜を左周りに移動し、松林と海の間に位置取る。チンピラと背の高い男は微動だにせず背に女を隠していた。これ以上ないほど理想的な状況だ。男ごと貫けば女も不幸な事故で死んでくれる。
「そう、もう一つ伝えることがあったな」
倭刀を肩に置き、黒眼鏡を投げ捨てる。軽く関節をほぐしながら、一言一句違わず伝わるよう、縁ははっきりと声にした。
「天からの贈り物は確かに俺が受け取った」
向き合う男達の足元で真昼の光に砂が白く輝いた。
- 25.11.09
あとがき